教員の身分保障と生徒の教育権保障
−生徒の教育権保障と表裏一体の教員の身分保障−
兵庫高等学校教職員組合
阪神支部 市立芦屋高校分会
小川文夫・深沢 忠
1 概要
「教育改革」と称して「教員への違法な転任処分」が下されたとき、生徒は自分たちへの攻撃と受け止め、「教育改革」への反対運動を始めた。生徒たちは、生徒たちの教育権保障のために働いてきた教師の強制配転が学校に何をもたらすかいち早く気づいていた。市芦の教育権保障の取り組みと教員の身分保障の必要性を報告する。
また、教員の身分保障(転任処分)をめぐる「市芦裁判」についても触れる。「市芦裁判」は、芦屋市教育委員会が行った、「教員を学校以外の事務職員に異動した転任処分」の違法性が争われた裁判である。この処分は、教育弾圧のために組合を弾圧し、組合が先頭にたって進めていた教育権保障運動を弾圧するために行われた。生徒の就学保障や学力保障に深く関わっていた組合員の教員から教員身分を奪って学校から排除し、学校全体の取り組みとなっていた生徒の教育権保障の運動を弾圧して、時代に逆行した競争と選別と管理の教育体制を強制的に導入するための処分であった。
その結果、生徒の教育権の保障はなおざりにされ、1986年から現在に至るまで教育委員会による教育破壊が続けられている。処分取消判決を得て裁判闘争に勝利し、2002年4月、被処分者は学校現場への復帰を果たしたが、15年に亘って学校から排除されてきた教員が教員として復活するには相当のエネルギーと時間を要する。また、15年間の教育破壊の影響も大きい。その上、芦屋市教育委員会は被処分者の復帰の直前に市立芦屋高校の廃校を議決している。弾圧の中で持ちこたえてきた分会の組合員に復帰者が合流して、限られた時間の中でどのような教育活動と存続運動が出来るか手探りしている。
2 学校が変わる−生徒たちからみた「教員処分」と「学校」
1986年9月29日付で、分会長と書記長に停職1か月の懲戒処分が出され、その直後の10月1日、組合の創設に関わってきた元分会長の社会科の教員に63年高校総体の事務局(市立体育館)の異動が発令され弾圧がはじまった。その半年後、さらに6名の組合員が教育委員会所管の学校以外の施設(図書館、文化財資料室、肢体不自由児・者施設、市長部局の地域センターなど)へ異動させられた。さらに、翌年には分会長他1名が同様の異動を発令された。いずれも本人への意向打診、同意なしの強制的転任処分であった。
これらの処分と職務命令乱発の校務運営により、以後の生徒の教育権保障の取り組みは窒息させられていった。もっとも典型的であったのは、入学試験の合否判定委員を拉致監禁し、家族にも居所を知らせてはならぬという箝口令の下で、募集定員内であるにもかかわらず、33名(定員120名)もの生徒を不合格にするという教育委員会が行った暴挙である。以後、今日まで定員内不合格が続いている。
また、授業においては自主教材の使用を禁止する職務命令が出され、「学校は学校へ来ている子の面倒だけを見るところだ」と家庭訪問すら禁止されるという状況で、それまで積み上げられてきた学力保障や就学保障の取り組みは一挙に潰されていった。議論しようにも教員の反発を恐れた校長が職員会議すら開かないという状況が続いた。一連の強制配転が終了し、教員支配が完了したと判断した校長(実態は全て教育委員会の指示で、不当労働行為を認定された松本壽男教育長率いる教育委員会の学校直接管理であった)は職員会議を再開するが、それは既に上意下達の伝達機関と化しており、生徒の教育権保障を論議する民主的な場とはいえないものになっていた。
就学保障の最も重要な取り組みであった奨学生指導も破壊されていった。奨学金申請活動も単に教育委員会の用意した申請書に必要事項を書き込み、教育委員会の設けた基準に合格すれば奨学金が受給できるというだけの形骸化したものになっていった。
本来の奨学金申請とは、申請活動を通して親の労働や生活史を知り、その環境の中で悩みながら生きてきた生徒たちの生活史をを見直し、貧乏を恥じ親を軽蔑してきた自らの価値観を転換する、いわば価値争奪の場であった。先輩から後輩へ、奨学生としてのあり方が自らの生活の語りを通して伝えらていったのが、奨学生活動の中心に位置していた奨学生集会であった。そこで語られた先輩の凄まじい生活経験と精神的苦闘、そして過去の生活への嫌悪や親への軽蔑を見事に反転させる姿は、教員の型どおりの説教など及びもつかない教育力を持って後輩や同級生に迫ってきた。彼等はまた、生徒会を支え、ホームルームの中心的存在として、生徒の側から教育活動を支えていた。
「金だけ受け取るな。親の労働史や生活史と一緒に奨学金を受け取れ。」これが、私たちの就学保障としての奨学金取得活動の指針であった。
「教育改革」という名の教育破壊により、奨学生活動に取り組んできた教員は奨学金係から外され、上意下達の管理機構の一部として任命された学年主任が形ばかりの奨学金係を兼務して、形式的な申請手続きだけが進められ、市芦教育の中心軸の一つであった奨学生活動は終息させられていった。
「奨学金を取っている三年のNです。この前奨学生で抗議文と署名文を書いて集めたんですけど、三年生の私たちは鈴木先生のことをそんなに知らないし、はたから見てたかぎりでしかないんだけれども、それでもなんで動いたかというたら、鈴木先生をもどしてほしいというんもあるんだけれども、私たちからしたら今の市芦が変えられるとそう思ったから動いてきました。」
1986年10月、最初に教員処分反対、「教育改革」反対の声を挙げた奨学生の全校集会での発言の冒頭の言葉だ。
彼女は、卒業式の答辞の中でも語っている。母親と姉と妹の4人で暮らしてきた。両親が離婚し、水商売の母親の収入だけでは生活が立ちゆかず、サラ金の借金返しに追われることになった。「借金が雪だるま式に増えていき、そのころ借金取りがしょっちゅう家に来ていた。私と姉は真っ暗な部屋で、部屋にいるのがバレないように息をひそめていました。」祖母からも少しの援助をもらい、気を遣いながらの不安定な生活が続いた。「中学の時いろいろ重なって、私も知らないうちにあれていたのでしょう」と卒業式の答辞の中で冷静に語った彼女も、荒れた生活を引きずったまま市芦へ入学してきて、高校生活では何度も挫折しそうになった。「私は市芦に入って、今の卒業を前にしたこの時が、やっとこれた、そんな気持ちでこの答辞を読んでいます。それは、私にとって、卒業までくるというのは、決して楽なものではなかったからです。私はここまで来るのに何度もころび、何度もつまづき、その度におきあがり、友達に手を引っぱってもらってここまでこれた、この市芦だったからこれた、そう思います。」学校を休みがちだった彼女はさまざま形で友だちに励まされていった。「初めに話しかけてくれたのがAさんでした。私はすごくうれしかったのを覚えています。Aさんの家もお母さんと二人だけの生活でしたが、私が気にしている事など気にせず人前で言ったり、親子で色々なことを相談しあったり、私の家とはちがう面が多かったのでびっくりしたし、教えられる面が多かったです。」「私は奨学生集会をとおして、Bさんの家の話など、初めて聞かされました。二人は進級もあぶなかったので、いま自分が不安に思っている事を話し合いました。その時、私はBさんの口から、自分は部落出身であってお父さんしかいないと聞きました。私は初めて自分の口でどうどうと部落出身と言われ、何か自分が小さい人間で、すごくBさんが大きく見えました。私はBさんが集会で自分の事を言ったのだから、自分もHRで言おうと思いました。」「そしてHRで初めて、私が自分の事を言うことになりました。私は前の夜、作文を書いて、言うことをある程度まとめていたのですが、いざその時、みんなを目の前にして言おうと思っていても、今まで思って考えていたことが言葉にならなかったり、うまく言えなかったり、もうガタガタでした。それでもCくんやAさん、DくんやEくんなど私の話に耳を傾けてくれていました。私は、その話を聞いてくれた人達を見ていて、自分の話をこんなにも必死に聞いてくれる人達がいるのを嬉しく思いました。先生にしても、友達にしても、こんなに自分の事を聞いてくれる人がいるのを思うと、胸にささるようなものを感じました。だから私は、このクラスのみんなと2年へ絶対に上がろうと思いました。」
市芦の生徒たちはホームルーム活動や奨学生集会、部落研活動、朝文研活動など自主活動を通して、また不断の日常のつき合いを通して励まし合い成長していった。そこに私たちが直接に、又は間接に関わってきた。これが、市立芦屋高校の就学保障の中身だった。「教育改革」の下では入学試験不合格、入学してからは進路変更という名の退学処分の対象でしかなかったであろうNは、教員処分ではじまった「教育改革」を自分たちへの攻撃と受け止めていた。「教育改革」を進める教育委員会の面々が列席した卒業式で堂々と答辞を読み上げて、市芦高校の値打ちを語って卒業していった。
彼女・彼たちが全ての先生を知っているわけではない。しかし、日々家庭訪問を繰り返し、授業に工夫を凝らし、生徒同士の出会いを大切にしてきた担任や学年の先生を通して、市立芦屋高校という学校が、また市立芦屋高校で働く教職員が何をめざしてきたかを知っていたし、自分にとって市立芦屋高校という学校が何であったのかを知っていた。だから、「私たちにとってかけがえのない今の市立芦屋高校が変えられる。受験勉強だけの市立芦屋高校になってしまったらもう市立芦屋高校ではない」という思いが、以後続く生徒たちの発言に共通していた。生徒たちの発言には、就学保障、学力保障など生徒の教育権保障に取り組んできた市立芦屋高校の教育への共感があふれている。だから、学校を守るために先生を守る、学校を変えさせないために先生の復帰を要求するという文脈で一貫している。
学校を守る闘いの先頭に立ったのは、日常の教育活動の中でも先頭に立ってきた、部落研、朝文研、奨学生の生徒たちであった。生徒たちの自立を恐れた教育委員会と校長・教頭は、その子どもたちと共に歩んできた教師、そしてそれら生徒たちの活動を狙って攻撃した。
今年、2002年4月、学校へ復帰してみてこれまでの遺産はことごとく潰されていることを実感した。依然と変わらないのは、市芦高校へ通っている生徒たちの階層だ。厳しい生活と学力実態を抱え、加えて人と人とのまともな出会いを経験していないように見える。「生徒は昔とは全然違うよ」と、復帰前から、そして復帰してからも同僚から言われた。しかし、私には生徒そのものはそれほど変わったようには見えない。大きな違いは、生徒たちが良質な人との出会いをほとんど経験していないよう見えることだ。
存続運動も押し迫っていて、時間がないことに焦りもある。そんな中で、何が出来るのか手探りをしている。一つでも多く生徒とのまともな出会いを作りたい。生徒の前で自分として可能な限り良質な大人の姿をさらしていたい。それが、いま私たちの考えていることだ。
3 虎の皮だけは残せた
私たちへの弾圧は市芦高校が1970年代初めから取り組んできた教育運動への弾圧であった(後掲「年表(市芦高校の歩みと市芦高校事件の経過)」を参照)。芦屋市教育委員会のめざす「教育改革」を推進するためにはまず、生徒の教育権保障を闘ってきた教職員組合への攻撃から始めなければならなかった。芦屋市教育委員会が、生徒の教育権保障に取り組んできた組合員の教員を、その教育身分を剥奪して学校以外の事務職員として異動したため、私たちの闘いは「教員の身分保障を求める」裁判闘争の形をとらざるを得なかった。教員身分の保障は「生徒の教育権保障」運動を進める上で欠くことの出来ない闘いであった。教員の身分保障と生徒の教育権保障は同時に攻撃され、同時に守られる。その意味で、教員の身分保障と生徒の教育権保障とは常に表裏一体の関係にあるといえる。
教員の身分保障というとき、私たちは、上意下達の職制に規制された事務職員の身分保障とは少し違った、もう少し広義の身分保障を考えなければならない。「国民に直接責任負い」「生徒の教育を司る」専門職としての教員は、教育に権力介入が行われないように広範に身分が保障される必要がある。兵庫県において、かつて就職差別反対・進路保障運動が全国の先頭を切ってすすめられた時期があった。部落研活動、朝文研活動などの生徒の自主活動も盛んであった。しかし、強制配転によりそれらの教育的取り組みは崩壊させられていった。学校の民主的運営も後退させられていった。単に計画交流人事とか教育的必要性とかいった抽象的な必要性だけで裁量権が濫用されることを防ぐ道筋が構築されなければならない。
こうした広義の教員に対する身分保障が求められる中で、芦屋市においては狭義の意味での教員身分が奪われるという全国でも例のない不当な処分が行われた。この処分の取り消しを求めた裁判が「市芦裁判」である。15年の闘いを経て裁判闘争に勝利し、2002年4月、被処分者は市芦高校への現場復帰を果たした。
かつて、市立芦屋高校に入学してから毎日学校へ来ることができるようになった不登校だった障害児の親が、「市立芦屋高校には子どもを育てる風土がある」といい、奨学生の親が、「市立芦屋高校という学校は、芋を洗うように学校というザルの中で子ども同士がごろごろ、ごしごし擦れあって、成長する学校だ」といった。市立芦屋高校という学校はそんな風土を持つ学校だった。しかし、闘いが15年間も続く中で、それまでに培ってきた市立芦屋高校の風土は失われてしまっていた。また、働き盛りの30代後半から40代を犠牲にした。私たちも生徒たちも大きな犠牲を払った。大きな犠牲を払って、「教育の自由の観点から教員の身分は尊重されなければならない」とする教育基本法の精神を活かした高裁判決を確定させた。人事異動において他事考慮を許さず!教員身分が不安定化され教育基本法が危機にさらされているときに、この判決は私たちにとって貴重な財産である。
私たちの闘いが「虎の闘い」であったとは言い難いが、大阪高裁勝利判決という貴重な「虎の皮」を残せたことは誇りに思う。この裁判闘争と判決内容について若干触れておく。
芦屋市公平委員会審理が最終局面を迎えた1995年に始められた裁判は、1999年第1審神戸地裁判決、2001年控訴審大阪高裁判決において、「処分はその合理的理由に欠け、不当労働行為であり、教育行政目的に資するものではなく、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権を逸脱する違法な処分」として「処分取り消し命令」で終結した。
「市立芦屋高校事件」とは、前述のとおり生徒の教育権保障に取り組んできた教員を学校以外の事務職員に異動することによってその取り組みを破壊しようとして行われた教育弾圧、組合弾圧を目的とする違法な転任処分事件のことである。教員身分を奪うこの転任処分の取り消しを求めて闘われた「市芦裁判」は、「処分に合理性がなく、不当労働行為の違法な処分であるから取り消す」との勝利判決を得て終わった。判決は、学校において教育に携わる教員を、学校以外の事務職員に転任することの違法性と、違法性を判断する際のポイントを明確に判示している。
判決は、この転任処分を「処分は、免許資格を要し、学校教育に関する専門的な知識、経験を必要とする教員の、業務内容を異にする事務職員である指導員への転任処分である」と認定した。そして、「とりわけ教員については、教育基本法第6条においてその身分の尊重が定められていることに照らし、他の職種への転任の必要性・合理性については慎重に判断する必要がある」「異動先の職務が教育職員に深く関係するという抽象的な説明だけでは、どのように深く関係するのかは不明であって、このような程度の説明をもって処分を正当化することは出来ない」と述べている。
その上で処分について、異動先での異動の必要性(本人の教科の教育経験を活かして業務の充実を図る目的を有していたか)、異動元(学校)での異動の必要性、人員選択の合理性、異動先で実際に従事した業務内容(本人の教科の教育経験を活かす業務内容か)、異動の期間が具体的かつ詳細に検討されている。さらに、異動に際して本人への事前の説明、事前の通知が適切になされたかどうかなども判断の要素として考慮されている。これらの一つひとつが具体的詳細に検討された上で、今回の「処分違法、処分取消」の勝利判決が出されている。
つまり、教員を本人の意志に反して他職種へ転任させる場合、要考慮事項を十分に考慮する義務と他事考慮(本来考慮してはならないことを考慮して人事を行う)の禁止という非常に重い規制が任命権者に課せられることが判決の中に書かれているのである。(季刊教育法105号42頁参照)
本判決は貴重な判決として、2002年6月の教育法学会でも報告され注目された。判決の評価等は以下の学会発表論文「学校教員の転任に処分についての教育法学的考察」(抜粋)を参照されたい。