第一、戦後における教育行政と「後期中等教育」
一、はじめに
「大きな商店の店先に/ぼくは並べられていた。/ぼくも、ぼくのまわりの商品もみんな値段がつけられている。/それは偏差値である。/お客(高等学校)は数値の高いものから買っていく。/ぼくは売れ残ってなかなか売れない」
これは、ある中学生が受験を前にして記したものである。
学校は、「本来、全ての子供の人間としての成長・発達を保障することを任務としている」と言ってみても、現実には、現代の社会機構の有機的一環として、能力主義(点数序列主義)にもとずく競争と選別の機能を強力に果している。子どもたちは、学力競争とテストに追い立てられ、少数のエリートを求めて、ある者ははい上がり、多数が脱落していく。いわゆる「学力」の格差はすでに小学校高学年次に拡大され、中学生になるとそれはいっそう拡大され、「低位」の子どもたちは学習のつまずきを放置されたまま「落ちこぼれ」というラク印を押されていく。彼らは”学習意欲なし”とみなされ、高校進学への志望を断たれ、就職(仕事保障)の道すら厳しく制限され、いわば教育棄民として、学校から、そして社会から放逐されていかざるを得ない。
このように、学校が排他的競争と選別の場となり、<棄民>を生み出していく事態を打開するためには、何にもまして教育の物的・人的条件の整備が急務である。さらに、たとえ高校へ入学したとしても、45人定員の過大学級、教員配置の削減により、子どもたちは自分がどこでつまずいたかも分からぬまま、自分は「頭が悪い」「他人よりできない」と観念させられ、勉強ぎらい(「学校ぎらい」)となり、学校生活にもはりあいを失って、学習意欲すら喪失させられていく現実は、11万人を越える高校中退生徒の数が如実に示しているであろう。年々増加する高校中退生徒の数を、”学習意欲のない”生徒として、その「不適応」を生徒個々人の能力や責任に帰する発想は、学校教育の現実に対して無知であるばかりではなく、こんにち”教育改革”を語る資格を失ったものといわなければならない。
芦屋市立芦屋高等学校(以下「市芦」という)は、上記のごとき、今日の学校教育(高校教育)を支配している能力主義的選別と「教育荒廃」の現実に対して、さまざまな試行錯誤を繰り返しながら、生徒の学習権・教育権を保障する立場に立って、厳しい教育活動を展開してきた。その歴史は差別を許さぬ「同和」教育運動において、さらには、高校全入運動の教育要求を引き継ぐ教育権の保障の普遍的な運動において、きわめて高い評価を受けてきたのである。
市芦の教育は、一言でいえば<偏差値>(点数)で生徒を評価する教育から脱出しようとする苦闘に満ちている。市芦の教師集団は、大学進学率や偏差値学力に捕われた学校運営・教育方針から、教育基本法の理念(人間の尊厳、個性の尊重)に基づいた教育の創造に向けて、高校教育の固有の価値を取り戻そうとしてきた。同じ営みのウラオモテとして、体罰や処分で生徒を秩序に従わせようとする管理主義教育と闘い続けた。「点数」のみで生徒を測り競争に追い立てる「学力観」(生徒観)の下で、学習意欲をずたずたにされ、過酷な被差別の現実に打ちひしがれ、「荒れ」ざるを得なかった生徒たちの飢餓と痛みの中に、市芦の教師たちは、根元的に人間的な力がうごめいている一点を見失わず、そこに教育の原点を見定め、希望をかけ、それこそ人間くさい格闘を続けてきたのであった。
無惨とも言える学力破壊(「低学力」は作り出される!)の前で、検定教科書だけに頼る授業では、生徒の学習意欲を引き出せぬというところから出発し教科(内容)研究と授業方法の模索、「障害」者生徒の学習権の保障と交流、就職差別を許さぬ進路保障の取り組み、生徒の自立を促す校内自主活動の組織化、等々が続けられた。
このように地域住民、とりわけ被差別の立場にある人々の教育要求に「直接に」正対し、「不当な支配に屈することなく」国民の教育要求(とりわけ高校全入要求)にむかって市芦という学校を開いていこうとしたその営みは、戦後公教育の初発の理念と熱意を正当に引き継ぐものであったといえるであろう。
二、新制高校の理念的前提
昭和23年に発足した新制高等学校は、新しく義務教育となった新制中学とともに、<単線型>の中等教育制度を形成するものであった。「学校教育法」第41条に、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする」とあるように、義務制の中学校との一貫性の上に、「高等普通教育」と「専門教育」を合わせて施すことを目的とするものであった。その際、重要なことは、中学教育との一貫性をふまえて、義務制ではないものの、戦前からの中等教育への国民総体の教育要求を反映して、可能な限り高校教育を一般教育として普及させるため、その機会均等を図る意図の下に、種々の施策が考慮されていた点である。
まず、なによりも、高校入学を希望する中卒者全員が入学できることを基本構想とされ、「将来は授業料を徴収せず、無償とすることが望ましい」(文部省学校教育局「新制度実施準備の案内」より)と考えらていた。この高校入学希望者全員入学の理念・構想は、新制高校発足当初しばしば強調されたものであり、それは、高校入学者の選抜方法に明瞭に示されていた。高校発足以前にあって、「学校教育法施行規則」第59条には、「入学志願者が、入学定員を超過した場合には、入学試験を行うことができる」とあるように、入学者の選抜は、いわば「例外」扱いされていたのである。入学者の選抜をしなければならない場合(むろん現実にはその場合が多かった)、「それ自体としては望ましいことではなくやむをえない害悪であって、経済が復興して新制高校で学びたいものに適当な施設を用意することができるようになれば、直ちになくすべきものであると考えなければならない」(文部省学校教育局「新制高等学校望ましい運営の方針」昭和24年)というのが、文部省の公式見解であった。こうした構想の下で、昭和23年に出された学校教育局長通達「新制高等学校入学者選抜について」は、「なるべく多くを収容できるように教室の能率的使用等に充分の意を用いること」を指示したほか、「志願者数が収容可能数を越える場合」の入学者選抜要領を、「一、新制高等学校においては、選抜のための如何なる検査も行わず、新制中学校よりの報告書に基づいて選抜する。」と示したのであった。
「選抜のための学力検査は行うことが許されない」とする、文部省のこうした指示には、高校進学準備のための競争によって中学校教育が歪められないようにとの、慎重な配慮をうかがうことができる。
次に指摘しておかなければならぬ点は、上記の希望者全員入学という理念・構想を支え、具現していくために、<学区制>への配慮がなされていた。すなわち、昭和23年の「教育委員会法」第54条は、「高等学校の教育の普及及びその機会均等を図るため、(教育委員会は)その所轄の地域を数個の通学区域に分ける」とのべ、(戦前のような)特定の伝統的な「有名校」に入学希望者が集中していくのをあらかじめ防ぎ、学区毎の入学競争率を均等化(平準化)させ、そのことで、高校教育の普及と機会均等を図ろうとした。それは、地域の実情に応じ高校の増設を促すと共に、学校間の格差の解消を企図したものであった。
さらに、こうした「学区制」(小学区制)の企図・配慮とともに、単線型学校体系を一貫させるため、普通課程を共通とするところの、総合制高校が考えられ、「能力の有無などによって、進学の希望とその機会が大きく制限され」ることのないよう留意されてもいた。(「新制高校実施の手引」)
このように、戦後教育改革の一環として発足した新制高校は、希望者全入の構想のもとで、小学区制、総合制、及び(男女)共学の施策とともに、教育の機会均等の実現がめざされていた。
三、高校教育の変容と「多様化」政策
「教育は、不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とする教育基本法の精神に立脚して、とりわけ教育の機会均等を実質的に保障していこうとする構想と配慮のもとに、戦後高校教育は発足したのであった。だが、昭和25年以降の、いわゆる朝鮮戦争による「特需」をもとに復活した財界・産業界は、公教育への圧力と発言をしだいに強め、戦後の民主的教育改革の反動的改編を企図する。
昭和26年、占領政策の是正をかかげ首相の私設諮問機関として発足した政令改正諮問委員会は、学校教育制度の多様化、教育委員の任命化、国定教科書の作成など、戦後教育改革の理念を否定する答申を出した。その後昭和28年に文部省の中央教育審議会(「中教審」)が発足した。文部大臣による任命委員からなる中教審は、財界と政権政党の意を代表し、やがて、昭和31年には任命制教育委員会が強権的に発足し、昭和32年には教職員に対する勤務評定が実施され、昭和33年には教育課程の改定(「法的拘束性」をもつ)がなされた。
経済の高度成長期と「技術革新の時代」を背景に、昭和37年11月、文部省は『日本の成長と教育』と題する教育白書を発表したが、それによれば、教育を経済成長・生産効率のための「投資」とみなし、その寄与率を指数を用いて表したのであった。昭和38年経済審議会の『経済発展における人的能力開発の課題と対策』では、<能力主義>という言葉が使われ、それが高校教育の基本原理とされた。そこでは、経済と科学技術に関する分野で指導的な役割を果たし、経済発展をリードする人的能力を「ハイタレント」とよび、人口の3〜6%のエリート養成を重視した。これ以後、能力主義の徹底こそが教育の「原理」とされ、後期中等教育の「多様化」(「進路、特性、能力に応じる教育」)が、「効果的能率的な教育」とされるに至ったのである。すなわち、単線型学校から複線型のそれへの再編・移行である。
昭和38年〜40年は、中卒生徒の急増期(いわゆる第1次ベビーブーム)にあたっていた。加えて、経済の高度成長がもたらした国民生活水準の「一定」の上昇を生活基盤として高校進学を希望する生徒の数が急激に増加した。国民の教育要求の焦点は、後期中等教育(高校進学)に向けられていたのである。「後期中等教育をすべての者に」(for all)という高校全入のスローガンは、まさしく時代の教育要求(水準)となっていたのである。
だが、こうした進学希望者が「爆発的」に増大する時期にあって、その対策といえば、昭和45年度における進学率を実績(82、1%)より大きく下回る72%と推計していたごとく、文部省の方針は、ほとんど無為無策であった。それゆえ、国民の進学要求に基づいて、高校教育機会の均等を求めた高校全入運動(昭和37年、高校全入問題全国協議会結成)は、文部省の「高校急増対策」という名の無策(無計画)と鋭い対立を余儀なくされた。
すでに略述したように、高校発足当初希望者全員入学を理念とした選抜制度とその方法は、すでに、昭和29年には改定(変容)され、高校による、選抜のため学力検査が導入されていたが、文部省は、高校全入という広汎な教育要求に直面して、「高等学校教育を受ける能力あるもの」のみを入学させるとの方針へと明確に転換したのである。すなわち、選抜のための学力検査を行うことが原則として打ち出されたのである。こうした転換の背景には、「全ての者に後期中等教育を」という国民的要求を、「ハイタレント」マンパワーの養成を主眼とする、高校の能力主義的多様化によって分断・「複線化」し、高校進学の機会を制限していこうとする、政府・財界の意図が色濃く反映していた。
四、高校全入運動の思想
すでに述べたように、戦後六・三制の教育改革の論理によれば<高校全入制>は理念的前提であった。「地元民のために、地元民の意志に基づいて地元民の教育にあたる」新制高校を「各地域毎に設置」し創設していくことを理想としていた。そうすることによって、「高等学校に入学志望者をすべて収容するだけの数と施設とを準備し」「男女に対する教育の機会を保障」し、さらに「地域の青年の要求を広く満たす」ための「総合制」の実施計画を立てることは教育機会の均等保障の当然の施策と考えられていた。(前掲、文部省学校教育局長通達「新制高等学校の実施について」昭和23年)
ところで、上記のごとき民主的理念と施策が、観念の上の論議にとどまることなく、現実に実行に移されるためには、生徒の「進学」要求を基底とする教師と親の強力な教育運動が必要であった。とりわけ、教育の機会均等という近(現)代公教育の原則の定立にもかかわらず、部落差別・在日朝鮮人差別・「障害」者差別によって、劣悪な生活環境におかれ、教育の機会を実質的に剥奪されている住民の、生活・教育要求の切実さに触れ、高校教育を受ける権利が、<生存>にかかわる権利であることの認識が、高校全入運動の広がりと深まりの中で明らかにされていった事実はきわめて重要である。なぜなら、憲法ー教育基本法の理念の現実的ありようが、そうした被差別住民の生活・教育の要求の中に端的に示されていたからである。たとえば、当時(昭和35年以降)、高校進学率が70%に至ろうとする時点で、被差別部落出身生徒のそれは、40%を超えることができず、高校進学率の格差は顕著であった。文部省当局自らが「すべての者に後期中等教育を」のスローガンを唱えたとき、被差別部落出身生徒の大半は、「せめて高校だけは」と願いつつも、「就職組」に行かざるをえず、進学を断念せねばならなかった。”土方にしかなれない教育””土方を卑下させる教育”と、彼らによって告発された教育は、高校多様化が打ち出され、進学競争がしだいに激化して行く状況下で起こったのである。(たとえば八尾中学校事件)
「高校への進学・不就学を分けている要因は、一見成績が大きな規定力を持っているように見えるが、家庭の所得水準もそれに劣らぬほどの規定力を持っている。つまりこの選択過程にはたらいている原理は、成績原理であると共に、所得原理でもある。」(潮木守一「進路決定のパス解析−高校進学過程の要因分析」)いわゆる成績原理と所得水準とが一般的(統計的)にみて表裏の関係にあるという指摘は、高校進学問題が、現代の貧困(その背後に横たわる被差別生活実態)とその再生産構造そのものへの、教育領域からの打破と挑戦という視点をぬきにしては解決し得ないことを再認識させるものである。このことを、高校全入運動は、被差別の生活実態に迫る中で、次第に明らかにしたのであった。
五、高校「多様化」政策と兵庫県教育行政の転回
1、高校「多様化」政策の展開
すでに述べたように、経済審議会答申(昭和38年)は、「能力主義の徹底」を打ち出し、「経済発展をリードする人的能力」(ハイタレント・マンパワー)の養成を力説し、そのためには「個人個人によって異なる能力や適性を発見し、それを系統的・効率的に伸長すること」の必要性を説いた。かかる観点より、「教育における個人の能力観察と進路指導」の重視、「能力の発見と伸長の方法」の改善を、中等教育全般に対して強く要請したのである。
かくして、高校教育課程のコース制が多様化され、高校間格差(ランキング)−タテの多様化!−がいっそう強められていったのであるが、「進路指導」の強化とは、そうした再編された学校体制に個々の生徒を選別・配置していくことの「指導」の徹底を意味していた。
この経済審答申の三年後に出された中教審答申(昭和41年年)には、前者の路線に立って、後期中等教育の多様化が明記され、とりわけ生徒の「能力・適性・進路」に応じたさまざまな教育課程の編成を主眼とし、職業高校(学科)の多様化(細分化)がはかられていった。
かくして、学校の種別化がはかられ、高校の格差が固定化されていったのであるが、かかる高校教育再編の帰結は、いわゆる「上位」の高校を目指す進学(学力)競争の激化であり、選抜テストの弊害の日常化であった。”テストがあって授業がなく、授業があって教育がない”といわれた学校教育の空洞化(テスト教育)は、「能力主義の徹底」という高校教育再編の必然的な産物であったといわねばならない。
2、兵庫における同和教育行政
ところで、兵庫県教育委員会の行政姿勢に目を転ずるならば、加熱化する進学競争と、そこでの教育の「空洞化」現象をまの当りにして、「教育が経済に従属することを全面的に肯定したり、人間は生産のための手段として教育されるものであるとの教育観に陥るような誤りを犯してはならない。」(兵庫県教委「昭和44年度指導助言の方針」)と、人材開発政策(ハイタレント養成)に基づく能力主義とは一定の距離をおき、「記憶中心のつめこみ主義教育や選別中心のテスト主義教育」を批判していた。当時の県教委は、入試競争の激化とそれがもたらす補習授業の弊害、テスト業者との癒着、等々の社会問題化した事態に対して、公立高校入学者選抜方法の改善にとりくみ、(いわゆる「兵庫方式」,昭和43年より実施)また、昭和44年からは、公立普通科高校の総合選抜制度を、学校間格差是正の有効な方法と認め、全県下に条件の整ったところより導入することを決め、実施に踏み切るなどの対策を講じていた。 すでにふれたように、高校教育の機会均等の実質的実現を求める要求は、高校増設を含みつつも、それのみに解消し得ない質を持った、すなわち差別と選別の教育現実との対決・打破という課題ないし方向性を自覚化させた。昭和30年代前半、尼崎市立城内高校(定時制)において先駆的に展開された全入運動とその教育要求は、その後昭和40年代、他の定通制高校に引き継がれ、拡大され、定通生徒の通就学保障(教科書無償、授業料全免、勤労奨学資金、等)の整備、教育内容の自主的編成、生徒の自主活動の組織化(部落問題研究部、朝鮮問題研究部、等)が、過酷な生活を背負って定通高校にたどり着くその生徒たちの要求に寄り添う形で図られた。それは、”能力主義の徹底”によって学校教育から疎外されていく(きた)「底辺」からする、<権利>としての「同和教育」の追求でもあった。
さらに、就職の機会均等要求を核に持つ進路保障運動が、昭和40年代後半展開された。この運動は、高校教育三(四)年間の実践の「総和」として闘われざるを得なかった。
とりわけ、神戸市・西宮市・兵庫県などの人事委員会などの差別選考を糾す就職差別反対闘争は、職安行政をも巻き込んで、就職選考時の「社用紙」の廃止(統一応募用紙の作成)、「本籍地は都道府県名にとどめる」こと、戸籍謄本類の不提出、身元調査の拒否(禁止)を実現していき、さらには、資本の「聖域」とされた人事権(採用権)に公教育の領域から要求を突きつけていく回路が、わずかながらもここに切り拓かれていった。
このような権利としての教育=青少年の学習権・労働権の保障の実質化は、同和対策審議会の答申(昭和40年)と同和対策事業特別措置法の制定(昭和44年)にみられる、部落問題の解決を「国の責務」と認めた行政の基本姿勢の下で実現されたことは詳述するまでもない。そして、この時期、県教育行政は、「ひかりを教育の谷間に」という標語が物語るように、エリート教育に傾斜することを戒めつつ、一定の積極的、進歩的な対応を示したことは、やはり評価しておかねばなるまい。
こうした教育の条件整備(拡充)に責任を負う教育行政のもとで、市芦における、先駆的な<進学保障制度>が実現され、しかもそれは「優遇措置」としてではなく、学習権(教育権)の実質化=全入の思想の深化として達成されたものであった。(詳述は後章にゆずる)
3、小笠原反動教育行政への転換
しかしながら、昭和50年、坂井県知事が登場するや、県行政は、オイルショック後の構造不況を背景に、急激な反動的転回を遂げていった。
八鹿高校事件や尼崎育成調理師学校差別事件への糾弾闘争が、県行政の差別体質に向けて火を吹くや、坂井県政は、それまでの行政姿勢をかなぐり捨て、糾弾権の否認、”運動と教育の峻別”を骨子とする第307号通知を出し、部落解放運動への敵視を一層ムキダシにしたのである。かかる県行政の急転回の意をていした小笠原教育長は、就任早々、昭和40年代の基本姿勢であった「兵庫方式」、総合選抜制度の見直しを発表し、実施寸前であった神戸、姫路、福崎学区への総合選抜制度導入の中止を指示した。
小笠原教育長は「講演」のなかで、昭和40年代の基本方針であった「ひとりひとりを伸ばす教育」というスローガン、そのもとですすめてきた行政施策は失敗であったと断定し、エリート養成教育が復権されねばならぬと説き、そのためには、学力別・能力別学級編成が必要であり、かくすることで教育の効果・効率が高められると主張している。のみならず、生活が破壊され、能力主義的選別によって切り捨てられた生徒に徹底して「世話をやく」教育は、残りの40数人を犠牲にすることであり、教育の効率上「認めることができない」と言い放っている。
この「講演」に明示された「教育の中に厳しさを」という方針は、競争に基づいて教育効率を高めるとの、先述した国、文部省の方針とまったく軌を一にするものであった。むしろ、それへの過剰適応ですらあったと言えよう。
こうした能力主義教育観にもとづいて、昭和51年には、通達「生徒指導体制の強化について」が出され、生徒の「非行」・問題行動に対しては毅然たる態度で臨み、手にあまる生徒は関係機関(おもに警察)との緊密な連携によって解決せよとの、いわゆる学警連携体制の強化が打ち出された。
また、教員に対しては、教委・管理職による上意下達の管理体制を強化するために、昭和52年主任制が実施され、いわゆる「計画交流」の名のもとに不当配転人事が大量に行われることとなった。
小笠原教育長の後を受けて就任した森脇も、すでに転換した路線・方針を踏襲し、「総合選抜制違憲論」を唱え、昭和54年には定通制授業料徴収を復活させるなど、先述した昭和40年代の良心的・積極的な教育施策のほとんどすべてを廃棄していった。
さらに、また、昭和53年に全面改定された新高校学習指導要領の「多様化」、「弾力化」政策にしたがって、全国に先駆けて「進路別コース編成」の導入を推し進めた。
今日、県教育行政が昭和50年以降強権的に推進してきた能力主義・競争主義・管理主義の教育は、”学力は金力である”との教育現実に過剰適応することで、そのような教育体制になじめず日夜苦しめられ傷ついていく児童・生徒を冷酷に突き放し、切り捨て、教育棄民を不断に再生産していっている。そして、それに抗う生徒や教師を、遵法精神の欠如したものとして、権力的に制圧しているのが、まぎれもない現実である。
「はじめに」にも述べたように、そこにあるのは、弱者切り捨ての論理であり、それは国家の「教育改革」(臨教審答申)と通底しているといえよう。
市立芦屋高校の教師・生徒は、このような教育を認めず、共同して人間の尊厳に立ち帰る教育を求めて起ち上がったのであった。