第二、高校教育の課題と市芦の実践(教 育活動と労働組合活動)
一、市芦の沿革と概要
1、市芦の創設から「進学保障制度」の実施までの歩み
(一)市芦を生み出したものと創設時の教育
芦屋市立芦屋高等学校(以下市芦という)は、昭和36年10月21日付けで兵庫県教育委員会から全日制普通科一学年三学級の市立高校として設置認可を受け、翌年4月1日に開校した。
市芦創設の背景には次のような事情が働いていたと考えられる。昭和30年代後半は戦後のベビーブームの子供たち(そのピークは240万〜250万人)が高校進学期を迎える時期に当っていた。全国の高校進学率は昭和36年には60%を超し、毎年2%前後の伸び率を続けていた。高校進学希望者の激増にもかかわらず、高校増設は進まず、そのため多数の中学浪人が出ることが予想された。日教組はすでに昭和34年第21回大会で「高校入試廃止・全員入学の方針」を決め、「全ての子供に中等教育を受けさせる」ための闘争を進めていたが、一方、父母の間にも全国的に高校増設・希望者全員入学を求める運動が盛り上がっていた。
人口10万以下の都市における市立高校建設は強く抑制するという文部省方針にもかかわらず、人口6万の芦屋市において市立高校を創設させた力は兵庫県教職員組合芦屋支部(以下「芦教組」という)などの教組運動と「せめて高校だけは」という子と親の願いを直接に市行政にぶつけた母親を中心とする市民運動によっていた。つまり、「高校で学びたい、学ばせたい」という子と親と教師の願いの込められた高校として市芦は創設されていった。
新設の市立高校は、「少数精鋭主義」を標榜し、「国際文化住宅都市にふさわしい生まれながらの一流校」を目指して出発した。ここでの「精鋭」「一流」とは少数エリート養成機関として市芦を位置づけようとするものであった。当時のいわゆる「芦屋教育」と呼ばれた芦屋の地における教育のあり方を象徴的に物語る事実の一つに、市外からの越境入学者の数の多さを誇っていたことがある。多い年で1500名を越え、昭和25年から始まり昭和34年に廃止されるまでの越境入学者から取り立てていた「寄付金採納」は、総額1億円近くに及んでいた。これら越境入学者を中心に小学校から私立中学へ進学するものは30%に達していた。そのための受験準備教育が行われていた。市外からの越境入学者の数の多さと私立中学への進学率の高さを誇りとする公教育の姿は本来の公教育のあり方からおよそかけ離れており、その歪みは歴然としていた。
その歪みを生み出す根本のところに国の教育政策があった。
昭和30年代後半から40年代にかけての教育は経済界の要望に応えることを第一に考えて進められており、経済の論理に強く支配されていた。それを典型的に示すものに昭和37年11月に文部省が発表した教育白書「日本の成長と教育」があり、経済審議会が昭和38年1月に答申した「経済発展における人的能力開発の課題と対策」がある。前者は「教育投資論」を大胆に展開し、後者は「教育及び社会における能力主義の徹底に対応して、国民自身の教育観と職業意識も自らの能力に応じた教育を受け、そこで得られた職業能力によって評価、活用されるという方向に徹するべきであろう」という。言葉を換えて言えば、それぞれが身の程を知り、分に応じた教育を受けることを考えるべきだ、能力もないのに高校へ、大学へと望むのは愚かなことだ、また、就職したら分相応の処遇を受けるものと覚悟すべきだ、ということであった。
教育政策の基調がこのような方向へと傾斜を深めていくにしたがって、学校が「できる子」「できない子」を選別する場所となり、選別機関としての役割が期待されることになった。
子と親と教師の願いをもって創設された市芦もその例外ではなかった。1学年4クラス(設置認可は3学級)40名学級の条件を整え、既設の高校と大学合格者数を競うことを至上目標としていった。発足当初は入学式前から補習が始められ、英語・数学の能力別学級が編成され、県下一斉模擬試験・摂丹地区模擬試験・旺文社模擬試験・校内模擬試験などの模擬試験が目白押しに組まれ、考査成績は成績順に廊下に張り出された。わずか4クラスを進学組と就職組にクラス分け、そのため女子がわずか2名のクラスができたり、逆にほとんど女子ばかりというクラスができたりといういびつなクラス構成となった。生徒から金を集めて補習が行われ、日常化していた。丸坊主が強制されていた。市議会から大学別合格者一覧の提出が求められたりして、受験体制を加熱させていた。受験問題集を教材としての授業が主流であった。
学校運営は校長・教頭以下特定大学の出身者で独占され、自由な空気はなかった。いわゆる学閥を裏組織として校長−教頭−主任−一般教諭の序列化がされ、命令監督服従関係秩序が確立していた。教師の自律性は否定され、その分、教育活動は硬直化・画一化を免れなかった。
(二)教育の民主化と第一期の学校改革
しかし、創設5年を前後して学校体制は徐々に変えられていく。受験教育体制に対する社会的批判の高まりもあって、学校体制の見直しが進められていく。英語・数学の能力別学級は有効な学習効果も期待できず、いたずらに生徒の競争意識をかきたて、優越感と劣等感を生み出すだけだ、ということで廃止された。進学組・就職組という進路別学級編成も生徒の分断を進めるだけだ、として取りやめられた。一斉模擬試験の強制受験の廃止、補習授業の廃止、考査成績や進路先の掲示の廃止などが行われていった。
これらの改革を進めていったのは、組合の結成(昭和41年)を機とする学校運営の民主化を実現した教職員集団の統一した意思であった。それは、「生徒の学習権を保障するためにこそ教師の教育権があり、それは学校全体としての教育自治の上で行使され、機能するものである。教育自治を機能させるものとして学校運営の民主化は不可欠なものである」という考えにたって全教職員の協力によって進められた。職員会議が事実上の審議・決議機関として学校の最高意思を代表するものとして尊重され、校務分掌も希望と合意の上で決められていく。生徒の自治活動も活発となり、学校の主人公としての生徒の自覚も高まっていった。しかし、それらは受験校としての部分的な手直し、行き過ぎの是正にとどまり、受験校としての基本的性格を変えるものではなかった。
(三)被差別の生活実態に迫る
昭和43年から45年にかけて、いわゆる「一斉糾弾」と呼ばれる部落出身生徒、在日朝鮮人生徒らの教育要求運動が兵庫県下の高校現場で吹き出す。それは、生徒と教師の教育と学校の再生を目指す必死な闘いとして展開されていった。糾弾の発端となった湊川高校の「育友会費不正使用事件」は公教育の公費負担要求・教育費の労働者負担解消の取り組みを目指す兵庫県高等学校教職員組合の運動としても発展していった。
昭和45年、市芦においても育友会費の凍結と教育費の父母負担軽減のため、校内に「育友会費問題検討委員会」が作られ、目標実現のため、市教育委員会との折衝も繰り返されていく。それは、単に金銭上の問題でなく、子や親が負担する1円の金に張り付く労働と生活を問うことで教育のあり方を根本的に問うところへ進んでいった。一人一人の生徒の生活土台を見つめ、生活現実と向き合うことでしか教育という営みは成り立たないのではないか、という教育観への転換であった。その教育観で市芦に学ぶ生徒を見るとき、例えば次のような生徒の実態が教師の目に見えてきた。
極貧の中で育ち、高校入試に失敗し中学浪人として過ごしていた6月、家に帰ったAを待ち受けていたのは鴨居にぶら下がっていた父親の姿であった。踏台に登り針金を外して冷たく重い父親を抱くように崩れ落ちたとき、崩れていった彼の内部は以後おさえがたい狂気によって占められることとなる。高校に入り、母親の喜びを支えに立ち直ろうとした彼に、今度は1年間の結核療養が告げられる。療養所から帰ってきた彼を迎えたのは「口を抑え顔をそむけて」彼と話す教師だった。学校と教師に対する癒しがたい憎悪を胸に納めたまま卒業年度の3分の1を自宅と病院を往復した後、中学のときの親友の口利きで小さな会社に就職していった。
あるいは、小学校時を九州の炭坑長屋で両親の帰るのを待って過ごしたBがいた。石炭産業の崩壊と共に「炭坑離職者」という名の国家の棄民政策をもろにかぶった父親が見いだした職場は、正月にも親子6人が顔を合わすことが出来ないほど仕事を求めて渡り歩かねばならないものだった。家庭の崩壊は目に見えていた。「外へでて遊んでおいで」という母の言葉が何を意味するかをおぼろげながら感じ取っていながら、そのことの故に、一層恐くなって家を出たものの、たまらなくなって駆け戻った家には、ガスが充満し、生命はとりとめたものの母親は失明していた。以後、娘は父親を憎み続ける。父親を憎むことでしか母親への思いを伝えきれないものだと思い込んで。
彼らの中に部落出身生徒や在日朝鮮人生徒がひっそりとひとりいた。彼らにとっても生きる上で力となり、励ましとなる高校教育のあり方が手探りされなければならなかった。
「学習意欲とは生活意欲全体の上にちょこっとのっかっているものだ」と言われるが、生徒が日々生きている生活現実そのものを度外視して生身の人間との格闘である教育が成り立つはずがない。学力をも一つの力とする生徒の自立・自強が目指せるわけがない。市芦の教師もそうしたことに気づかされていった。
2、「進学保障制度」の実施に始まる学校再生へ向けての歩み
(一)「進学保障制度」の実施
(1)五項目要求とそれへの芦屋市行政の対応
昭和45年12月に部落解放同盟芦屋支部・上宮川協議会の連名で次の五項目に及ぶ教育要求が芦屋市長及び教育長に提出された。五項目要求とは、(1)学級定員を減らす。30名学級・複数担任制の実現 (2)加配教員の確保(3)公立高校への進学保障(4)「同和」奨学金制度の新設・増額(5)障害児学級児童・生徒の進路保障、である。これらの要求は、差別と貧苦に加えて徹底した「文盲」政策のため公教育から排除され続けてきた部落の親と子の身を切るような要求であり、それ故に底辺諸階層の要求を引き出し、すべての教育権・学習権を奪われてきた人々の統一的な要求として普遍性をもつものであった。
五項目要求そのものは芦屋市内の中学・高校教師が部落の親と子の声を聞き取りながら、共に練り上げたものであった。従ってそれは教師自身の教育改革の課題であるとの認識があり、教師の主体的な要求と動きを生み出すものであった。
五項目要求に対して市教育委員会はいっさい耳を傾けず、要求を拒否すると共に「こぼれおちる子どもが出来ても仕方がない」「教育は親の責任である」と居直り、その敵意と差別性をあらわにした。
ただちにそれは差別行政として部落大衆の批判と糾弾を受けることになり、その動きに組合もまた合流していった。「芦屋教育」を根本的に見直さねばならなかった。それを貫いていたのは憲法・教育基本法の精神を生かし、深めようとする意志であった。
ここに始まる「芦屋教育」の改革について芦屋市教育委員会は「芦屋市の教育にとって、これほど大きな変革期はかつてなかった。これまでの芦屋教育の内容に根本的な省察を加えて、諸々の制度や教育の内容・方法に思い切った改善を加え、抜本的な改革を行うこととなった。このことはまさに人間尊重教育の開眼であった」(「芦屋市教育委員会30周年記念誌」より)と総括している。また、前芦屋市長は、「芦屋教育の転換が図られ、一人一人を大切にする先導的な教育実践が着実に進められた意義深い10年であった」とのべている。そこには住民の教育要求を受け入れ、とりわけ教育における地方自治を生かした姿勢があった。
一方では、昭和46年、「第三の教育改革」と喧伝されていた中央教育審議会答申が予定されていた。それは高度経済成長に見合う能力主義的人材開発政策のストレートな表現であった。「資本の要請」を第一義として、競争原理に立ついっそうの能力主義・序列主義が強調されていた。経済の論理に立つ効率主義は以前にも増しての高校の多様化成策として具体化され、それらのためにも国家による教育管理の徹底が説かれていた。
中央教育審議会答申に対するさまざまな批判が行われたが、五項目要求は最も鋭い批判の一つであった。なぜなら、今日まで国家と資本の教育政策の犠牲となってきた民衆のもっとも深い部分からの、己の身を引きすえての異議申し立てであり、反撃であったからである。
(2)「進学保障制度」の意義
後期中等教育の保障がこれからの時代を生きのびる生存権的保障に直接つながるものであるとの認識が、高校進学率を95%にまで押し上げてきた根本の所に横たわっている。
「せめて高校だけは」という叫びはどの親にとってもどの子にとっても文字どおり死活的なものになっていた。高校進学から取り残され、切り捨てられる5%の子供と親の上にこそ日本の過去と現在の政治・経済・社会の矛盾が集中され、その生活を破壊し、生命を損なっているという事実があった。
それらの子と親の上に戦後教育の営みがあったとすれば、改めて憲法・教育基本法に立ち帰っての民主教育の徹底が求められた。
市芦においても真剣な討議が重ねられ、五項目要求の第3項目に関して、「公立高校への進学保障問題を焦眉の課題とする」学校方針が決定され、市教育委員会の許可・支持の下に「進学保障制度」として具体化されていくことになった。
この制度は差別や生活破壊のために学校から排除され、教育から疎外されてきた子供らにとって、現行の高校入試制度は一層追いうちをかける差別・選別の機能を果すものでしかないことへの批判から出発している。そして教育から疎外し、その人間的諸能力を奪い取ってきた子供らに対して、公教育としての責務を果すため何よりもまず校門を開こうとするものであった。
実際的には、現行の入試制度によりながらも、それに接ぎ木する形で定員の枠外に差別や生活破壊のため、学習権を侵害され、「作られた低学力」におかれた子供らの高校進学に道を開こうとするものであった。
「進学保障制度」は中学卒業者の高校進学率の壁といわれる5%に切り込むことで、芦屋市の高校進学率を全国平均94%、全県下平均95%に比して、98〜99%に押し上げることとなった。また、公立高校の開門率も阪神間各市に比べて10〜20%高くなった。
それは、今や義務教育の観を呈している高校への「全入」を先取りしようとするものであったといえる。
高校進学を断たれていた5%を受け入れていくためには、文字どおり能力主義・管理主義を至上とする高校に教育を再生させねばならない。市教育委員会もいうとおり、「教育の内容や方法に根本的検討を加え、抜本的改革を行うことが必要」であった。
(二)対県闘争と「進学保障制度」の拡大・発展
「進学保障制度」の実施が与えた影響は小・中学校に対しても大きかった。有名私学への進学を誇りとしていた「芦屋教育」の支え手であることで、生徒の切り捨てを重ねてきた小・中学校はその性格を大きく転回していった。「一人もおちこぼさない教育」を目指して教師の実践が深められていった。教職員組合として絶えず教育闘争を掲げてきた芦教組の果した役割も大きかった。
中学・高校間の連携が強められ、教育実践の交流が「進学保障制度」を軸に実りを産んでいった。
さらに地域の県立高校に対しても呼び掛けがなされ、市芦よりもある意味ではもっと困難、複雑な条件を抱えながら、「進学保障制度」の発展を目指す動きが生み出されていった。
同和加配教員の配置と県立高校への「進学保障」措置拡大を求めて、昭和47年末から48年10月まで、市教育委員会・市立小中高教師集団・県立高校教師集団・部落解放同盟芦屋支部・芦教組・高教組が一体となって熾烈な対県教委闘争が闘われた。
この結果、全県300余名に及ぶ加配教員の配置と「入試要項311項」とよばれる、定員の2%内外という枠を持ちながらも中学校からの特別具申により部落差別や経済的貧困などにより学力を破壊されている被差別下の生徒を高校が引き取っていく道を拓くこととなった。
(三)就学保障の取り組み
いわゆる「進学保障制度」の実施に至るまで、生徒の就学保障ということが教師の教育活動であるという発想は市芦の教師になかったといえる。当然奨学金制度に対する理解も乏しく、育英制度としての理解にとどまっていた。校務分掌として奨学金係も確立されておらず、奨学金の申請指導もなされず、従って奨学生も全校でほんの数名を数えるに過ぎなかった。
「進学保障制度」の実施に踏み切っていった教師にとって、生徒の生活実態が見えてくるにつれて、就学保障は欠かすことの出来ない教育課題として取り出されてきた。
例えば、「進学保障制度」の第一回生として入学してきたCは、幼児期を廃品回収業の父が引く大八車の中で過ごし、父の死後病弱で働けぬ母と妹の世話をし、そのために中学校を百日余も欠席せねばならず、生活保護を受けることで辛うじて生きつなぎ、市芦にたどり着いていた。Cにとって奨学金や授業料免除なくして通学することは不可能である。奨学金制度や授業料免除制度は何よりもCを採用できるものでなければならなかった。Cの生活現実を見つめ、その就学保障措置にかけずり回る教師の目には、クラスの中に数多くのCが見えてくることとなる。市芦では在籍生徒の2割が奨学金を受給し、授業料免除の措置を必要としている。
学校挙げて芦屋市をはじめ神戸市・西宮市あるいは日本育英会に対する制度改善の取り組みが行われ、規定・金額などの面で改善を見ていった。
また、臨海学舎や修学旅行への全員参加を実現するための扶助料制度の新設や生徒の健康管理をも加えたメガネの公費負担などの「医療補助」制度なども設けさせていった。
奨学金の申請・取得指導は教師の教育活動の一つとして位置づけられ、生徒にとってはそれに応える生きた学習活動としてとらえられていった。そのことによって制度の理念は一層その意味を深められていくこととなる。
(四)授業改善の取り組み
(1)「わかる授業」要求の叫びをあげた生徒たち
競争主義・能力主義の制圧している現在の学校において、多くの生徒が授業が分からず、学習の喜びを持つことがないといわれている。とりわけ、被差別状況下におかれてきた生徒にとって、学校における差別とは何よりも学習の場からの排除であり、学力の破壊である。学習の喜びに代えて深い劣等感を植え付けられ、学習意欲そのものも根こそぎにされていく。学校によって彼らは深く傷つけられている。
学校が自分たちにとって「生きる場」となることを求めて、昭和48年9月、部落問題研究部の生徒を中心として「進学保障生徒」たちの「わかる授業」要求の声があげられた。
そのさけびを最初にあげた一人がDであった。「進学保障生徒」としての選択をDがしていったのは、9年間に及ぶ奪われた教育をなんとしても奪い返したいという痛切な思いからであった。
Dはその思いを次のように訴えている。
「小学校3年の時、家、お父ちゃん収入なかって、電気止められ、ガス止められ、水道まで止められてローソク1本の生活していた。お父ちゃんとお母ちゃんのけんか毎日のようやった。いつもお金のことや子供のことやった。私が学校へ持っていく集金袋にお金いれてほしい、というたらけんかになった。私にできるこというたら、ふとんの中でただ怖くてふるえて泣くだけやった。絵の具やクレパスはお金がなくて買ってもらえへんかった。図工の時、わすれたふりしてた。勉強なんかひとつも手につかへんかったし、授業なんかもいっこもわからんかった。そんな時、担任の先生が家にきて『おまえ特殊学級にはいったらどうや。あそこやったら勉強できるし、学力つけてもらえるし、一度いって出直してこい』というた。お父ちゃんもお母ちゃんも学力つくんやったらということで承知したんや。入ってみてそこでどんなことやったかというたら、おもちゃのお金使ってお店屋さんごっことか、毛虫取りとか、庭の掃除とかや。特殊学級に入ってからは『特級』『アホ学級』とかいわれて、いじめられた。まわりの子ごっつう怖かった。今までの友達も離れてひとりになった。私が落ち着いたところというたら家しかなかった。中学校に入っても同じことが続いた」
ここには勉強が遅れた子どもは学級から排除し、隔離し、容赦なく切り捨てていく事実が証言されている。その受け皿に障害児学級が使われるという二重の誤りが犯されていた。
同じ学年のEは、その要求の声を次のように続けている。
「私は生まれてから15〜20回も家ばかりかわってきた。学校の友達もほとんどできんと、出来ても1人か2人やった。教科書も全然ちがうのにそのたびにかえてきた。言葉もわからんと授業中よう笑われて、何回休みたいと思ったかわからへん。お父ちゃんとお母ちゃんは私が小学校はいる前からマージャン屋につとめていた。店を始めるのが8時頃で夜中の2時、3時までやった。
‥‥小3の時、算数で時計の問題がでた。親子3人、3じょうの部屋で寝ててガラス戸1枚むこうではたくさんの客がマージャンしててどうしてもできんかった。学校でも授業わからへん。『先生わからへん』いうた。『なんでこんな簡単なことわからへんのか』いうて、いつも持っている竹で頭たたくんや。国語の時間、私は本もよまれんかった。わたしがあたるとみんなが笑うんや。そんな時、勉強どころか『学校なんか』ておもた。4年は勉強のことでばかにされて、1か月ほど休んだ。お父ちゃんに黙って。5年の時、お父ちゃんは働きにいってかえらんかった。金も入らへん。給食代なんかの袋だすのいつもおくれた。先生はブイブイいうて私の名前呼ぶし、そのたびに逃げだしたかった。お母ちゃんは身体悪うして、夜眠っていて大声だした。『助けてくれ』言うんや。
‥‥中2の時、社会科の宿題がでて、発表せなあかんとき、参考書ないんで困った。お父ちゃんにいうたら古本屋でこうてきてくれたけど、難しすぎて結局できんかった。そんなお父ちゃんも中3の時、無理がたたって死んでしもた。お母ちゃんも男のやる仕事やってきたんや。小学校もろくに行けず字も書けへん。先生にわかる授業やってもらわな、私はお母ちゃんに字教えられへん。お母ちゃんに字教えてやりたいんや」。
(2)「わかる授業」要求に応える学校体制
DやEの要求はDの父親の「おまえが奪われた学習権は自分で取りもどさな誰も取り戻してくれへん」という言葉や、疲れた身体を夜遅く識字学級に運ぶEの母親の姿に励まされたものであった。この親や子の底にあるのは教育権こそいろいろな人権の基礎となるものだ、という生活の時間をくぐり抜けた認識である。そこでは生きることと学ぶことが一つのこととして追求されていた。
DやEの要求に応える手軽な処方箋はどこにもなかった。教材の自主編成へさらに深く教師が追い込まれていくのは、この地点においてである。なかには教材づくりに頭を抱え込み学校へ泊り込むなど、教師の必死な教材研究が進められていく。教科会議・学年会議で一人一人の生徒の学習状況が論議されていった。教師は民間教育研究団体へ積極的に参加し、その成果の吸収に努力を傾けた。
教室の中でみせる生徒の姿を正確につかみ、授業を造り上げていくために教師の編成の方式にも工夫が加えられていった。数学・英語・理科・体育などの教科については複数教科担任制がとりいれられ、時間講師制度は否定され、芸術科を含めて専任教諭の配置が行われた。これらは、加配教員として行政的措置が取られていった。
学年会議を中心として生徒のことが話し合われ、全ての教師が生徒に対してできるだけ共通の理解を持つことが指導上の必要な前提として了解されていった。担任を中心として、原則的に3年間生徒と共に歩み、その進路を見届けようとする学年体制が造り上げられていく。
(3)通知表、指導要録の改善
学力観・生徒観の変革は学習評価の方法の改善を引き出し、従来の段階評価の通知票から学習と生活の記録としての「点検表」が生み出された。従来の評価方法では、生徒の既に持っている能力を他と比較して数字でランク付けるだけで、生徒が何を学び、なぜそういう判定をされ、今後どう学習すれば良いのかが明らかにされない。この反省にたって各教科の中で教師が何を教えたいのかを明らかにし、その一つ一つが生徒のものになっているかどうかをたしかめ、総合的所見を学習所見として文章で表記する方法である。それは生徒にとって本当に励みと心の広がりとなるものでなければならず、そのためにはそれぞれの生徒の持っている最も良質な部分と出会える授業でなければならなかった。
この「点検表」の取り組みは根本的には授業改善にその根をおくものであるが、それはまた、進路保障にかかわる「就職統一用紙」の使用や日本育英会奨学金改善の闘いをはじめとする奨学金制度の改善闘争と繋がるものであり、それらと相互に支え合う役割を持っていた。なぜなら、「就職統一用紙」の学力評定不記入・文章表記にしろ、奨学金申請書類の文章表記にしろ、それらはいずれも、従来の資本や国家の学力観・人間観に対する正面からの批判であったからである。
指導要録についても検討が重ねられ、その差別性(「人別帳」として機能することで生徒の進路を閉ざし、人権侵害を引き起こすもの)をすこしでもとりのぞくため、記入についての改善が市教育委員会の了解の下に進められていった。
「わかる授業」要求運動の展開は生徒が共に学び合うことの大切さに気づき、学習集団としてのクラスを作り上げていくことの上で大きな役割を果した。だれもが学ぶ意志と意欲を持っており、学ぶことが権利として確立されなければならないし、そのためには学ぶもの自らの闘いが必要なのだ、という意識を広げていった。
それは昭和49年に本格化する中学の障害児学級卒業生を「進学保障制度」により受け入れる土壌を準備するものでもあった。
(五)障害児の受け入れとその意義
中学を卒業すると、進路が閉ざされ、進学を望めば遠方の養護学校しか行き場のなかった障害児の進路保障として「進学保障制度」による市芦への受け入れは昭和47年に身体障害者を受け入れることから始まる。障害児の受け入れをめぐって途方もない論議が重ねられていったが、市芦の教職員を揺り動かしたのはやはり子供の命に我が命を重ねる親の姿であり、義務制の教師の姿であり、それにもまして目前の障害児の姿であった。「ぼくはやりたいことがたくさんある。絵をかくのがすきです。話によっては、本をよむのがすきです。ちえとちしきときおくりょくと自由がほしい」と書くFの叫びを前にしてであった。
昭和49年のFの入学以来12年の経過の中で50名の障害児を受け入れていった。市教育委員会はこのことを評価して、「高等学校にも障害児童・生徒を受け入れる道を開いてきたことは幼・小・中・高一貫の人間尊重教育を実現する上で画期的な前進であった」(「芦屋市教育委員会30周年記念誌」より)としている。
高校の門をくぐることのない5%の中に障害児がいた。ここでも憲法・教育基本法の理念と思想は「高校全員入学」を前にしてもう一度試練をくぐらなければならなかった。
普通高校に障害児が通い続けている事実のもつ意味は大きい。
「人とつきあう勇気をつけたい」として入学してきたFは「学校にいくのがしんどくなった。授業が難しくてついていけない。……健常者と一緒に生活することがしんどかった。学校をやめたいと思ったこともある。だけどやめたら自分まけたことになるので頑張った。一生けんめいに通学した。養護学校へいった方が楽だったかもしれないが、市芦に来たほうが良かったと思っている」と言う。このFたちのひたむきな闘いに学校は全力で応えなければならなかった。授業体制一つ考えても様々な試行の繰り返しの中での手探りの連続であった。ここにも出来合いの教科書はなかった。
障害児の受け入れを継続させた何よりの力は、その存在と位置を学校空間の中に確立していく障害児自身の生きる闘いにあったといえる。それは、他の生徒にとっても大きいものであった。同じクラス、同じ学年、同じ学校でごく身近に障害児を視野にいれ、授業やホームルームや文化祭・体育祭といった学校行事を共にしていくことは、当然ながら様々な衝突、矛盾を抱え込むことであった。障害児を異物として排除するかどうか、日常的なあらがいの連続となった。しかし、その中でしか真の人間尊重の教育とすぐれた人権感覚は育っていかない。障害児と共に学び、育つことで生徒が身に付けたものは大きかった。
(六)教育条件の整備と教師の創造性・自主性の高まりに基づく学校組織の活 性化
(1)「加配教員」の配置
一人一人の生徒の学習権が保障されるためには、教育条件の整備が進められることが何よりも必要である。
そのため、「教師こそ最大の教育条件である」として、昭和46年の「進学保障制度」の実施以降、「加配教員」の配置が進められた。特に、昭和47年には複数担任制度や専任教諭制度の充実のための増員、昭和50年には本格化する障害児の受け入れに伴う増員などの措置が取られた。昭和47年からは35名学級が実現し、一人一人の生徒に対する教師の指導体制の強化が図られた。これらの条件整備を進めるに当って大きな役割を果したのは組合である。組合は、教師の労働条件の改善を進め、そのことで、よりよい教育活動を進める条件を整えていった。
「加配教員」の配置により肉体的にも精神的にも過重労働の限界の所で進められていた教職員の教育活動は励まされ、一層困難ではあるがあるべき高校教育を目指しての努力が重ねられていった。逆に言えば、「加配教員」の配置なくして学校教育改革は不可能であった。障害児の受け入れに伴う校舎増築や手すりの設置、便所の改善などの施設の整備も行われた。
(2)学校組織の活性化
教職員が自主性・創造性を発揮して、個人としても集団としてのその能力を意欲的に結集させられるような生き生きとした学校体制が編成されることは教育条件の整備の一つである。
既に昭和40年代に学校運営の民主化が進み、制度的改善を見ていたが、それらが生徒の生活と学習の現実とその課題に応えることに根拠をおいたものかどうかという視点から見直されていった。校務分掌は希望・公選・互選の原則で分掌委員会を中心に取りまとめられ、各教師の意欲を引き出し、能力を十分に発揮できるように配置されたし、自主研修・出張研修の保障もされ、教師の資質向上を進めるものとなった。
(七)進路保障の取り組み
進路保障は高校での教育の総和と言われるが、高校を最後の学校とする生徒にとっては明日からの生活を自らの手で支える重要な出発点に立つことでもある。 特に、差別や生活破壊の中で、自らも大事な家計の支柱とならなければならない生徒にとってはとりわけ痛切な大事である。
教育の機会均等の保障という発想と論理が、就職の機会均等の保障ということにおいても貫かれなければならない。
企業をはじめとする求人側の恣意的選考を一切問うことのなかった就職試験において就職差別は日常化していたが、昭和40年代以降、全国的、全県的な就職差別反対闘争が闘われていった。市芦における進路保障がさきに述べたような意味で教育課題として据えられるのは「進学保障制度」の実施以降であった。
就職差別を廃止するための就職統一用紙「兵庫県版」(詳しくは後述)の制定に際してその使用を決定し、行政・企業への働きかけがすすめられた。昭和47年から市教育委員会、県労働部・職業安定所などの労働行政の責任と併せて、各企業(吉原製油、芦屋市、甲南電気、大阪ガス、ヤンマーディーゼル、神戸製糖、電々公社、神戸大丸、C月堂、オンワード樫山、日本ケーブルシステム、横浜冷凍等)への適正選考を求めて学校あげての取り組みが行われていった。あわせて大学の入学関係書類の改善、入学経費支払い手続きの改善等の努力が神戸学院大学等に対して重ねられた。
生徒にとっては就職・進学を問わず進路の決定を人間の生き方の選択として考え、3年間の学習の総和とする進路指導体制の確立へと向かっていった。
これらの教育活動について次節で具体的に述べる。