二、市芦のすすめてきた教育活動 
  
1、就学保障の取り組み

(一)奨学金等の制度改善の取り組み                 
 (1)芦屋市における制度改善の取り組み
前述した進学保障制度要求の中で出されている「五項目要求」の中の、「同和」奨学金制度の新設と増額について、市教委の対応は、当初、「予算が取れない」、「既存の制度の中でやって欲しい」と繰り返すばかりで、被差別下、貧困家庭の生徒を頭から切り捨てる対応に終始していた。
しかし、部落解放同盟や現場教師等との話し合いの中で、その誤りに気づいた市教委は、初めて就学保障のための各種の条件整備に踏み出した。
昭和46年度、市教委は、芦屋市立芦屋高等学校及び大学入学支度金貸付規則(昭和46年11月26日)、芦屋市立芦屋高等学校授業料等の免除及び減額に関する規則(昭和47年2月17日)、芦屋市同和修学奨励金給付規則(昭和47年2月25日)を新設し、芦屋市奨学金給付規則(昭和47年2月17日)を改正した。これらは基本的には、「教育の機会均等を図る」ということを、制度の目的として明文化しようとしたものであった。
しかし、それでも、従来高校進学を閉ざされていた貧困家庭生徒が、市芦に次々と入学してきた時、その生徒の就学を真に保障する制度とはなっていなかった。
例えば、奨学金審査の収入基準を単に納税証明書にあらわされた数字に頼るとき、生徒の生活実態を正確に把握したものとなっていなかった。
昭和48年、芦屋市奨学金を申請した「進学保障」生徒が、収入基準を超えているとして不採用とされたため、学校はすぐさま就学保障の視点から対市教委交渉を持った。
 父親が製鉄会社に勤務し一定の収入があっても、別居中の祖母への送金や借金の返済のため、生活は追いつめられ、病身の母親がパートに出て生徒もアルバイトをして必死に学校に来ているという話がその場で出された。それは、一枚の納税証明書の数字で奨学金審査はことたれるとした市教委の姿勢を根本的に問いただすものであった。
その結果、市教委は就学保障の視点から「奨学金規則」の見直しをはかった。従来の規則は「有為な人材を育成すること」を目的として、「学業優秀」を受給資格とし、申請にあたっては「家庭調書」・「納税証明書」の提出を求めていた。それに、抜本的改善を加え、特に「教師・生徒の書く推薦書・申請文を審査の主資料とし、その中で数字に現われない生活実態を読み取る」という、真に「教育の機会均等を図る」制度に変えたのであった。
奨学金制度の改善は、このようにしてたった一人の生徒の就学保障要求の取り組みの中で具体化されていった。
 市教委はその後も、現場教師との話し合いの中で出される生徒の厳しい生活実態から教育行政の責任を考えていくという姿勢を持ち続けていった。さらに、教育予算を増額する中で、部落問題研究部・朝鮮文化研究部・障害者解放研究部(以下「部落研」・「朝文研」・「障害研」という)の三研の自主活動への補助と併せて、一般奨学生の合宿などへの補助が実現していったのである。それは、直接的な制度改善にとどまらず、制度の趣旨を教育活動の領域へ押し広げるものとして、生徒の自主活動の条件整備を進めたものだった。それらの自主活動を通して、生徒の生活意欲・学習意欲は高められ、本当の意味での就学保障は可能となった。
一方、学校内で「すべての生徒の就学保障を」という視点で、種々の学校規定の点検・改善がなされていった。
篤志家の好意にすがって設けられていた「市芦奨学金」の規定や、「諸会費免除」規定などは、成績優秀を基準とし、家族の勤務先・役職・資産・収入等を記入させる家庭調査書の提出を義務付け、「育英思想」・「恩恵思想」が基本となっていたため、職員会議において廃止された。
 昭和49年、健康を害していても医者にもかかれない生徒がいるという現実に対して、「医療補助(医療券)」制度が設けられ、眼鏡の補助・各種治療費の補助が公費負担で行なわれるようになった。
また、すべての生徒の学校行事への参加を保障するために、臨海学舎・修学旅行の公費負担による扶助費制度が確立した。(書証第2号〔昭和48年兵高教組教研「部落解放と入試制度」報告〕)
 (2)日本育英会奨学金および他市奨学金の制度改善の取り組み
 次に、他市・他種奨学金制度改善の取り組みについて、簡単に記しておく。
昭和47年、神戸市在住生徒への神戸市奨学金支給、臨海・修学旅行扶助費支給の取り組みを進め、奨学金・修学旅行扶助費の支給を認めさせた。
 昭和48年、神戸地区県立高等学校同和教育研究協議会・神戸市立高等学校同和教育研究会(以下「県神戸同協」・「市高同研」という)を中心に進められていた日本育英会奨学金制度改善要求運動に参加していった。中でも、県神戸同協・市高同研・兵庫県教育委員会・日本育英会兵庫支部など6者による制度改善小委員会が推薦調書における学力基準撤廃を打ち出す上で大きな役割を果した。市芦は、この推薦調書の成績欄五段階評価にかえて文章表記とする措置を実行したが、市教委も「推薦調書の原簿となる指導要録の記載方法の改善と通知表の5段階評価不記入・文章表記を承認している」旨の文書を発行して市芦の措置を支持し、全国で初めて成績不記入で日本育英会奨学金の取得が可能となった。あわせて、外国人子弟とりわけ在日朝鮮人生徒を排除する国籍条項の撤廃もなされ、日本育英会奨学金は、生徒の就学保障を基本とした制度へと改善されていった。
昭和50年、西宮市在住生徒の奨学金・修学旅行費の公費負担を要求した。前年度、西宮市立西宮西高等学校(定時制)が修学旅行費の公費負担を実現させた取り組みに学び、西宮市教委と話し合いをもち、同市には扶助費制度がなかったが、公費負担を実現した。翌年西宮市が市内奨学生を対象とした行事費扶助費制度をつくるが、市芦のこの取り組みが制度制定の契機をつくったのであった。
昭和53年、市内の三田谷教育治療院(障害児収容施設)から障害生が進学保障生として入学した。二名の生徒の保護者が西脇市、篠山町に在住しており、奨学金の支給を要求した。当時、制度が確立していなかったが、障害生の普通高校への進路保障の取り組みが理解され、奨学金を取得出来た。川西市や千草町へ同様の取り組みが行われた。
これらの取り組みにより、市芦の全校生徒の中の奨学生・授業料免除者数の割合は県下他校の3〜4倍の20%となるにいたっているのである。(書証第3号〔奨学金取得一覧表〕)
(二)奨学生の自主活動とその意義
 (1)奨学生にとっての奨学生活動の意義
部落解放奨学金が、生徒が被差別部落出身者としての立場を明らかにし、解放への強い自覚を育成するものとして位置づけられ、取り組まれてきたことに学びながら、一般奨学生への取り組みがすすめられていった。
前述した昭和48年の奨学金交渉を一つの契機としながら、校内において生徒一人一人が「なぜ奨学金をとっているのか」ということを通して自分の生活を点検していくという、奨学生の集会が取り組まれはじめていった。
奨学金に対する行政の「恩恵的思想」は、「貧乏だから」・「市から恵んで貰っている」という考えとして生徒・親の中に深く浸透し、彼らに身を小さくして生きていくということを「強要」し続けてきた。貧乏は恥であり、奨学金は隠すべきものであるという意識を反転させる必要があった。こうした作業は奨学生集会の中でお互いの生活を晒しあいながら行われた。
即ち、貧困な生活を通して、時として荒れ、親を恨み続けてきた彼らが、かろうじて辿り着いた高校で学ぶことの意味をつかみとれるには、必死に生きる親の生きざま、自分の生活現実を直視し、その親の教育にかける熱い期待を感受するしかないのである。
そのような取り組みを通して、彼らの「学ぶことへの意欲」と「生きる力」が揺るぎないものになっていった。そして、彼らがクラスの中心にすわることで、生徒の自主活動は「建て前」を越えて、生活感がにじみ、人の痛みがわかることをめざすものへと大きく変わっていった。

 (2)奨学生活動が与えた影響
昭和49年度、13回生から「3年間クラス・担任持ち上がり」制度を採用していったのであるが、それは、就学保障から進路保障への取り組みを学校体制として保障していくために、クラスを基本として学年教師全体による取り組みをすすめねばならなかったからだ。1人も脱け落ちることなく、「共に学び」「共に進路を決める」ということをホーム・ルーム運営の中心に位置づけた。奨学生集会・三研(部落研・朝文研・障害研)の自主活動での生徒の声はクラスに反映され、みんなのものとなることで、人権感覚は磨かれていった。
また、奨学生が積極的に生徒会執行部を形成していくことで、「生徒自治」「生徒会自治」に魂が入れられていった。しんどい生活を抱えながらも、話し合いを通して親の苦労を受け止めようとする彼らこそが、「低学力」や生活の荒れなどに苦しみ喘ぐ多くの生徒の声を「教育への要求」として受け止め、組織していった。たとえば、文化祭は単なるお祭りの場から、自分たちの生活を見つめ直す創作劇を中心とした活発な表現活動の場となった。あるいは、体育祭では障害生も共に参加できるように種目・ルールをめぐって全クラスにその討議が交わされた。それは、日常的に障害生と共に生きることを模索するものだった。障害生もそのような雰囲気の中で、生き生きとしてクラスの競技や公演に参加し、幾多もの感動的場面を生み出した。
 多くの被差別下生徒や貧困家庭生徒が在籍しているというだけで、生徒同士が互いに励まし合い、お互いの立場を理解し合うという関係が簡単に生まれるのではない。むしろ逆に、互いに傷つけ合ってしまうという現実にぶつかることの方が多かった。しかし、市芦では早くから奨学生をクラス・学年単位で組織し、それぞれの立場を突き合せ、正対させることで社会的偏見から解き放ち、他人の辛さを分かり、人としての優しさを身につけていくことが目指されていた。
 そのような、「生きていく力」を身につけていくことこそが、奨学生活動の意義であったといえる。
 市芦という学校がそれらの生徒を核とした学校へと変わっていく中で、クラスの一人一人が落ち着いて授業を受け、将来を真剣に考えられるようになっていった。
奨学生の指導を含む奨学金係の校務分掌は、昭和53年度からは校務分掌上独立し、明確にされていった。他の高校では単に奨学金の支給事務等の係として一名置かれるかどうかという分掌だが、市芦では日常的な生活指導も含めて、重要な教育活動の一分掌として位置づけられていた。

(三)奨学金制度の改悪と奨学生の闘い
 (1)奨学金併給禁止との闘い
  ア、失われた「就学保障」の視点
 昭和53年、市教委は事務監査を口実にして、市奨学金制度の改悪を企ててきた。それは、それまで併給が続けられていたにもかかわらず、突然、「日本育英会と市奨学金を併給している生徒がおり、市奨学金規則の他の奨学金との併給を禁じた規則に違反するので、後期分(10月〜3月)から奨学金を停止する」というものであった。
 これに対し、12月6日の職員会議において、管理職・奨学金係・担任による奨学金特別委員会を設け、二つの奨学金を取らねば学校に来れない生徒の生活実態を書き込んだ「嘆願書」を学校長名で12月14日に提出した。
また、在校生447名中100名近くを占める奨学生達は問題解決まで、抗議として奨学金の受け取りを保留することを決めた。ここまで奨学生が追いつめられていった背景には、次のような事情があった。すなわち、市当局は、授業料を毎年値上げし、昭和50年月額600円であったものが3年後の昭和53年には4000円と7倍まではね上がっていた。長期不況下で父母負担は急増していた。しかし一方では市奨学金は数年来ずっと据え置きのまま(一般4000円、特別6000円)にされていた。「貧乏人は学校に来るな」という行政姿勢であった。また、こうした行動は、問題を該当者だけにとどめず、奨学生全体の問題として受けとめ、考えていこうとする奨学生思想の現れでもあった。

  イ、奨学生の闘いの広がり
 奨学生たちは、2月に入っても依然として奨学金受給を保留し続け、「10名の止められた生徒の就学保障」「市奨学金制度の改正」「市奨学金の増額」という三点に要求をまとめて、「就学保障請願署名」を進めた。(書証第4号)
 その署名をクラスで訴えた奨学生は次のように語っている。
「私の家の状態は、家族12人で、ちっちゃいのばかりで毎日の食事代を切り詰めてもどうしても足りなくなるし、借金を返したら月の始めに次の給料日までどうしたらいいかすごく大変だ。苦しいので私らは前まで文句いってた。でもお母さんお父さん最後に食べて、弟たちが少しづつお母さんに残しておいたりして、弟たちも親のことわかってるんだと思った。
小学校の時は友だちがいなくて、(友だちが)少し出来ても自分のことは隠してて、中学でもクラスの子を信用してなくて、高校来るまでは毎日生活するのに精一杯だった。
父さんは大卒の中ですごくばかにされて、お父さんが漢字を勉強しているけど、それをみてたらはじめ働こうと思っていたけど、親が苦労してでも私に高校にこさしてくれたということでムダにしたらダメだと思う。
高校に入って皆に家のことを話できて今は恥ずかしくない。お父さん給料少ないし、お母さん小さい子いるから働いて欲しくなかってん。私の時はお母さんそばにいて甘えたいと思ったから。小さい時の写真でも私らのはあるけど、チビはないねん。一才だからまだお乳はなれてないし、お母さんと一緒にいたいと思うもんだから、初めは働いてほしくなかった。でも生活がそこまでいってるから、やっぱり私が働かなあかんと思うねん。でも私は学校に行きたいねん。
家にいて朝遅れてくる。私としたら身体弱いから遅れるし、チビだけ残ってるから学校に行きづらいこともあるけど、学校に行かなあかんのは、今奨学金がなくなれば学校に行けなくなるから。二つ取ったんだけど、一つストップになったから前の苦しいのが全然変わらない。
奨学金取ってて集会で話するのがすごく重たかった。でも、もっと奨学金取ってる意味をわっかていきたかった。ストップされても高校へ来る権利あるし、奨学生としてやらないといけない」
 この話は、市教委の「就学保障」の視点を放棄した行政姿勢への本質的批判としてあった。
 また、「高校に来る意味」を問いかける話としてクラスのすべての生徒の心にしみわたるようにして入っていった。
中には欠席を重ね、進級もあやういような生徒もいたが、この奨学生の闘いは、生徒自身が「クラスの仲間を一人でも留年させない」、「学校へつなぎとめよう」という動きへと発展していった。
生徒が互いに厳しく日常生活の点検、親の見方に点検を開始し、そのことで「親の願いを受け止め必死に学校につながらねば」という奨学生の思いがクラス全体に共有されていくことで、ホーム・ルームの質を大きく変え、その内実を深めていったといえるのである。
彼らは短期間にほぼ全校生徒の署名を集めた。

  ウ、闘いの成果と弾圧
 これらの生徒のきびしい生活実態にふれ、その生徒の要求を現場の管理職として受け止め、市教委に対して、生徒の就学保障を求める動きの先頭にたっていた校長は、昭和53年度末人事で、突然市教委へ降格転任させられ、かわって市教委指導部長が新校長として着任してきた。奨学生との話合いの中でその生活実態と就学保障の要求を知らされた新校長は、4月19日に市教委に対し「就学保障要請書」(書証第7号)を提出した。
 これらの一連の闘いは、「規則違反なので違反生徒から今までの受給分の戻入を求める」という市教委の態度を撤回させて一応終結した。
 翌、昭和55年、市教委に、奨学金を1000円増額させた。これは奨学生の闘いの成果の一つであった。
しかし、その年度末に市教委は三名の教師を強制配転してきた。奨学金係滝山教諭をはじめとして、積極的に奨学金闘争を闘った大角教諭・森村教諭を市教委事務局へ指導主事として配転した。これは奨学金闘争に関わってきた教師をねらいうちにしての報復人事であった。
 加えて、三名の教師は、各々組合活動家として、とりわけ生徒の教育権保障にかかわっての組合活動を積極的に取り組んできたことからすれば、組合活動家への攻撃であり、明らかに不当労働行為であった。
 奨学生らは「奨学金を切って奨学生を学校に来れなくした市教委が、今度は奨学金のことで市と交渉してきた教師を私たちから奪おうとしている」と怒り、「三先生を返して」と声をあげる全校生の先頭にたった。 この強制配転撤回闘争は、「一年後」という条件付きではあるが、三名の教師の現場復帰を約束させ、市教委は強制配転人事の非を認めたのである。(書証第6号『この闘いに映し出されて』)

 (2)収入基準との闘い
昭和57年、市教委は「収入基準」だけにより5名もの申請生徒を不採用にした。市教委の定める「収入基準」とは表面だけをとりつくろう形式的なものだった。それは、「母子家庭」「父子家庭」「障害者」などを項目として区分し、それぞれについて何万円という控除額を定め、所得額を算出するやり方であって、「生活の実相」が入り込む余地などなかった。
不採用生徒の中には次のような生徒がいた。「父子家庭」の父が東京に単身赴任し、弟と二人で生活してその二重世帯のやりくりでギリギリの生活を余儀なくされている生徒。また、15年間施設に預けられ、その後父親と暮すがどうしても家庭の絆を作り得ず、睡眠時間を四時間余にけずってまでアルバイトをしながら一人で生計を立て、生真面目に学校へ通い続ける生徒。彼らが「収入基準」という「数字」によって切られてきたのである。
この生徒たちを囲んで奨学生集会が持たれた。(書証第7号奨学生通信)この二人を核として奨学金闘争は続けられ、文化祭において市芦で初めての奨学生の創作劇「いも虫の唄」(書証第8号)が、市教委への抗議の劇として公演されたのである。この劇は多くの生徒・教師の感動を生み、学校を代表する優れた劇として、市教委の主催する「青少年の主張大会」でも公演され、深い感銘を与えた。
このきつかった闘いの跡を生徒は次のように語っている。
「わたしらにとって申請文を書くということは、自分の総括であり、自分の生活をさらけだして文章を書くということはしんどいことやった。五人の子が落とされた時、わたしらは申請文がちゃんと読まれてへんという怒りを表明し、市教委に抗議した。申請文を書くこともしんどいことやけど、闘いをくむことはもっとしんどかった。落とされた子が疲れていくのがわかる。その姿を見てたら自分まで疲れてきそうになる。
私たちの抗議は無視された。収入基準に押し切られたもどかしさの中で、集会の集まりも悪くなっていった。大きな力の前に私たちはいも虫のように踏みつぶされそうになっていった。でも、ここで負けるわけにはいかなかった」
親子のあらがい、ズタズタに引き裂かれた溝、それでも親の必死な生き様をかろうじて見据えることを己に課してきたそんな奨学生の切ない闘いであった。
彼らの闘いは、市の福祉係をうごかした。福祉係が認める要保護家庭、生活保護家庭が市の特別奨学金の選考の基準になってきていたが、生徒の話を聞いた地区民生委員が「なぜこの生徒が奨学金をとれないのか」と直ちに推薦調書を作成した。その結果、市教委も採用にふみきった。
このようにして、昭和53年・昭和57年の二度の奨学生闘争は、奨学生自身が自分の立つ生活土台を正面から見据え、その自立と再生をかけた闘いとしてすすめられた。それゆえに、市教委の規則・数字による切り捨てに対し、真っ向から闘わざるをえないものとなった。
「奨学金は金だけの問題ではない」という思想が奨学生闘争の中で真実となり、奨学生活動の中核として引き継がれているのである。

(四)「松本教育改革」と奨学生の闘い
 (1)教師の処分と生徒の抗議
本件申立人である河村・深沢・鈴木の三教諭に対してなされた、昭和61年10月1日の処分が、生徒に及ぼした影響は極めて大きかった。とりわけ障害研の顧問であった河村、奨学金係であった深沢、朝文研の顧問であった鈴木らが処分されたことや、同時に授業も変えられていくという事態を、生徒が「市芦がつぶされることだ」と捉えていったのはごく自然のことであった。事後の展開はそのことを証しだてていく。
一年生にとって、学期途中で学年の三人もの教師が突然いなくなり、3人の教師の授業が受けられなくなったことは大きな打撃であり、「一体誰が自分達の教育を真剣に考えてくれているのか」と不安と不満を強めていった。生徒の不安に一切耳を傾けようとしない前田校長・井上教頭らに対して不信と抗議が向けられたのは当然のことであった。
その意味で、その後の生徒達の抗議の動きは、管理職の現場を放棄した無責任な対応が自ら招いたのであり、「教師が扇動している」などと言うのは、全く中傷・誹謗もはなはだしいものである。
処分が発表された翌10月2日には、生徒の抗議署名が始まった。続いて障害研・朝文研・部落研・奨学生らが次々と抗議文を張り出していった。「自分達の市芦を守れ、教師を返せ」という訴えであった。(書証9号生徒抗議文)
 校長室に教師への処分の説明を求めていく生徒も多くいたが、すべてまともな対応を受けず、生徒の不安は一層高まり、抗議の声は日々大きくなるばかりであった。
 (2)引き続く奨学生の闘い
 10月4日、6日と全校奨学生集会が持たれた。3年生のN子らの自発的な呼びかけであった。N子は抗議文で次のように訴えていた。
 「奨学生の自分等が、どんな生活を抱えて、どんな思いでこの市芦に通ってるのか、市芦の奨学生集会などで何を学んできたのか、今こそはっきりさせんとあかん」
「市芦の教師によって、初めて人間としてあつかってもらえた」というN子の思いは、集会に参加した全奨学生の思いでもあった。だからこそ、そのような教師を排除し、市芦を潰そうとするものへの抗議は、自分達を守る闘いとして始まっていった。全奨学生の独自の抗議署名が一斉に集められた。(書証第10号「奨学生抗議署名」)
10月9日の鈴木先生の離任式で、N子・朝文研のK・部落研のSらが次々と壇上に上がり、それぞれが「市芦の教育をつぶすな」との訴えを自分自身の学校生活の体験から訴えた。この訴えは全校生に届き、全校生は身動きもせず話に聞きいっていた。
N子らは全校奨学生の抗議署名を集約して、10月16日に管理職に提出し、「生徒は教師に扇動されている」との管理職の悪質なデマと歪曲に抗議した。管理職は生徒が自らの意志と考えで行動していることを認めざるをえなかった。
 翌17日の臨時職員会議で「新カリキュラム」(書証第11号)が一方的に発表されたが、これも生徒たちの不信を強めるものであった。この「新カリキュラム」は、すでに教科会議・学年会議・教務部会・職員会議などを経て、校長により承認されていたものを市教委が一方的に廃止して、新たに押し付けたものであった。奨学生らが心配していたとおりの内容で、クラスごとにまとまってうけていた授業を解体して、大幅な選択制を導入していた。明らかに受験教育に偏重し、一年次から英数の二教科で能力別学級編成をするという、差別選別を持ち込んだ競争主義をあおるカリキュラムであった。このカリキュラムに対する生徒の不信は「同じ高校生であって、進学するもの就職するものの学ぶ内容が違ってよいはずがない。みんな同じことを学びたいのだ」というところにあった。能力主義で人間をはかることへの嫌悪があった。
 奨学生らの抗議はさらに強められるしかなかった。
 こうした奨学生の抗議に対して市教委・管理職は奨学生活動の弾圧に直接のりだした。奨学金係の滝山教諭に対し、12月24日、「10月以降の奨学生の資料(奨学生通信)を提出せよ」との職務命令が出された。すでに公表された新カリキュラムを通信にのせたということをさして「守秘義務違反で地公法違反の疑いがある」との恫喝まで加えたのであった。これ以降、市教委・管理職は生徒・教師の声を封殺し、外に対しては悪質な中傷・デマを繰り返した。
N子らは、この闘いを自分たちの3年間の学校生活を総括することで後輩に引き継いだ。それは、卒業式の答辞(書証第12号「昭和61年度卒業式答辞」)の中で語られている。
奨学生たちの、「市芦つぶし」に対する抗議の闘いは、N子ら3年生の卒業後も引き続いている。
 昭和62年4月以降も、部落研・朝文研生徒らと共に全校生徒を代表して、奨学生たちは、「松本教育改革」が生徒切捨て教育であるとの訴えを必死で続けている。そうしない限り彼ら自身も市芦から排除され、高校教育の機会を奪われることを予感しているからである。