2、学力保障(教育内容改善)の取り組

(一)「わかる授業」要求から高校教育の保障へ
 市芦が昭和46年、第1回進学保障生を受け入れて以降、差別や生活破壊のため学習する機会を奪われ、「低学力」におかれた生徒が多数入学してきた。例えば、数学でいえば、四則計算や分数の出来ない生徒が何人もいた。問題は、もともと能力がなくて出来なくなるのではない。教えられた時点でわからなくなると、それ以後基礎学力を取り戻すことなく、したがって以後の授業がわからないまま授業を受け続けることになるということである。
  何年も授業がわからないで教室に座ることがどれだけ苦痛なことか。勉強が出来ないことで、どのような仕打ちにあってきたのか。市芦に入学してくる生徒がそのことを証言している。
 その一人、四年かかって卒業していったSは、「自分がどんだけ勉強をわかりたいと思って学校に来ているのか。勉強がわからないことで、どれだけ人間としてまともな扱いを受けてこなかったか」を、「字が読めない、書けない、計算が出来ないということで、それが出来ない子、その程度の人間やと見られ、仲間うちだけでなく、教師からも、自分を取り巻く大人からもどれだけ馬鹿にされ、相手にされずにきたか」を繰り返し語った。Sの思いは他の多くの落ちこぼされてきた仲間の思いでもある。
 まともな人間関係を取り戻し、生きる学力をつけ、高校を卒業してくことは、生徒たちの生存権と結び付いている。それは中卒の資格で働ける職場が、非常に限られているというだけではない。それらの職場の大部分は、不況ともなれば真っ先に失業させられる不安定な職場であるからだ。そのことは、学歴を持たぬ故に、劣悪な労働条件で働かねばならなかった親たちが、せめて子どもには「高校だけはなんとしても出て欲しい」という切実な要求を持っていることにも裏打ちされている。私たちには高校教育を保障し、進路を保障していく責任がある。
 市芦における本格的な授業改革の取り組みが始まったは、昭和48年9月以降の部落研生徒を中心とした進学保障生の「わかる授業要求」以降である。
 彼らの生活現実の重さとその中で作り出された学力破壊のすさまじさに強い衝撃を受け、生徒の高校教育を保障していくことは教師の重大な責任であることに気づかされていった。自己の生活史を語りながら、「わかる授業」を要求する生徒の内にたぎる「勉強したい」という熱い思いのあることを知ると同時に、教師やクラスの生徒にむかつて、これほど見事に話しきる力を持つ生徒が何故これ程までに「低学力」で放置されてきたのか、という学校教育の責任の重さを痛感させられた。それはまた、「わかる授業」要求そのものがすぐれた学力と同質のものであることを学んでいくことでもあった。
 「わかる授業」要求が生活のただ中から出されてきた要求であったから、それは必然的に進路をどう切り開いていくのかという要求につながるものでもあった。
 このため、3年間クラスを変えることなく、担任を中心として生徒と共に歩みその進路を見届けようとする学年体制がとられていった。学年会議を中心として、一人一人の日々の学習状況と生活状況が徹底して話し合われた。それに教科会議が平行して行われた。
 それらの話合いを通して得られた、生徒のもっとも良質な部分を各自の授業につなげる作業と、生活的にも学力的にも、追い込まれ、授業に身が入らず、学校を休みがちな生徒を担任を中心に授業につれもどす作業が続けられた。そのため、教師と生徒、生徒同士が心を開いて、十分に話し合える関係が保障されねばならなかった。またそれは教室にとどまるものではなかった。親と子、親と教師などが多用な人間関係の支えの中で子どもの学習活動は続けられた。
 各教科にあっては、すべての生徒が作られた低学力を克服しつつ授業に参加し、学力を培っていけるよう、試行錯誤を繰り返し、悪戦苦闘して、教科書に沿いつつも独自の自主教材を作り上げてきた。このような自主教材のみが彼らとわたりあえる教材となった。
 生徒を差別・選別し、特に小学校3・4年生以降、生徒を「低学力」へと追い落し、「落ちこぼれ」のレッテルを張り付けてきた数学を通して、市芦へ入学してきた生徒の学力実態と「低学力」克服の取り組みを述べることにする。

(二)数学科における授業改革とその実践

 (1)新入生の学力実態と授業形態
 数学科では、授業形態、カリキュラムを作成するため、また、授業を進めていく上で新入生の基礎学力実態を把握したいと考えて、昭和50年3月以降、基礎学力テストを実施してきた。
 次の表は、昭和50年3月に実施した第1回目のものである。

 

    昭和503月実施   基礎学力調査誤答率    (161名中 

 

 

  問題

 

誤答率

 

 

 

 

     問題

 

誤答率

 

 

 

 

25164

 

   1

 

 0.6

 

15

 

1.1-1.6-0.7+0.4

 

  49

 

30.0

 

 

13586

 

   3

 

 1.9

 

16

 

-0.06×100

 

  25

 

15.5

 

 

 

 

999678

 

 

   3

 

 

 1.9

 

 

17

 

1    3

- -

5    5

 

 

   8

 

 

 5.0

 

 

 

 

390189

 

 

   6

 

 

 3.7

 

 

18

 

1    2

- -

2   3

 

 

  20

 

 

12.4

 

 

 

 

123×3

 

 

   3

 

 

 1.9

 

 

19

 

 1    2

1- -

 6    3

 

 

  39

 

 

24.2

 

 

 

 

236×23

 

 

   8

 

 

 5.0

 

 

20

 

3    4

- × -

4    9

 

 

  29

 

 

18.0

 

 

 

 

561÷3

 

 

  10

 

 

 6.2

 

 

21

 

5    2

- ÷ -

6    3

 

 

  40

 

 

24.8

 

 

228÷12

 

  16

 

10.0

 

22

 

3x = 6

 

  16

 

10.0

 

 

35

 

   8

 

 5.0

 

23

 

2x = 15 - 3x

 

  27

 

16.8

 

10

 

8(2)

 

  13

 

 8.1

 

24

 

6x-9(2-x)=12

 

  43

 

26.7

 

11

 

6(5)

 

  33

 

20.5

 

 

25

 

三角形の面積と底辺がわかっている

時、高さは?

 

 

  39

 

 

24.2

 

12

 

(3)×2

 

   9

 

 5.6

 

13

 

(-7)×(-5)

 

  15

 

 9.3

 

26

 

円周を求める

 

  65

 

40.4

 

14

 

8-7×4

 

  55

 

34.2

 

27

 

円の面積を求める

 

  35

 

21.7

  注1)この表には3人の知恵遅れ障害生は含まれていない。
  注2)基礎的な数学の力をどのように限定するかで討論をし、分数・小数・正負の数の計算が出来さえすれば、本質的で分かりやすい教材は用    意できるとの判断で、上記の基礎計算テストを行った。
  注3)誤答の中にはケアレスミスもあるが多くは特徴的な間違い方をしていた。
  注4)この年の春、市芦で市内教科等研究会による公開授業を行ったとき、この表を見て、小学校の先生は、「これはみんな小学校の問題ですね、    改めて考えさせられます」と語り、芦屋市教委は、この資料を余分に欲しいと申し出てきた。生徒の学力破壊の実態に対する驚きは、市芦    の教師だけのものではなかった。
 この表中に当時の新入生の低学力の実態が見事に現れている。数学科教師は改めて、その学力破壊のすさまじさに驚かされた。
 この結果によると、昭和50年度は5クラス編成であるので、問題4のくり下がりのあるひき算が出来ない生徒が6人ということは、各クラスに少なくとも一人はいるとうことであり、整数のかけ算でつまずいている生徒が各クラスに二人弱、割り算になると三人いるということになる。問題11の正負の計算でつまずいている生徒が20%ということは5人に1人の割合で、問題19と21の分数計算でつまずく生徒が25%ということは4人に1人の割合で、それら分からないまま授業を受けることになるということである。
 次表は、昭和50年3月以降に行った基礎学力診断テストの結果における特徴的な問題における誤答率の推移である。

 

    (単位は%)

 

50

 

53

 

56

 

57

 

60

 

61

 

−6−(−4)

 

20.5

 

5.7

 

12.3

 

10.7

 

16.2

 

20.4

 

7−4×2

8−7×4

 

 

34.2

 

 

21.0

 

26.2

 

13.1

 

37.4

 

18.8

 

   

   

 

12.4

 

10.8

 

17.6

 

18,0

 

19.8

 

13.9

 

     

1−

     

 

24.2

 

32.5

 

36.9

 

22.6

 

43.2

 

22.1

 

   

÷

   

 

24.8

 

21.0

 

23.9

 

13.1

 

37.8

 

22.1

 

27.5 × 0.48

 

 

 

40.4

 

38.1

 

49.6

 

49.1

 

3150 ÷

  561 ÷

 

6.26.2

 

 

24.6

 

19.0

 

29.8

 

24.5

 

3x−10=2

2x=15−3x

 

 

16.8

 

 

12.8

 

17.7

 

16.7

 

23.4

 

26.1

 

−2x−3=0

 

 

50.3

 

61.6

 

63.1

 

80.2

 

67.2

 

速度を求める

 

 

21.0

 

50.0

 

 

 

 上記の表に見られる特徴的な点は次の通りである。
 昭和50年度に比べて昭和53年度に誤答率が下がるのは、一つには小・中学校で配置された加配教員が多くなったこと、また市芦で行われたのと同様の授業改革の取り組みが小・中学校でもなされた結果であると考えられる。
 昭和53年度に比べて昭和56年度に誤答率が著しく上がるのは、反対に加配教員が引き上げられた結果であると考えられる。昭和57年、誤答率が下がるのは、ひのえうまの年で全体に生徒数が減った中で、小学校1・2年の時に加配教員が多く配され落ち着いた指導が行われた結果であると考えられる。
 昭和60年に誤答率が著しく上がるのは、引き続き加配教員が削減されたこと、中学校一年時での数学が週4時間から3時間に減らされた結果であると考えられる。このように「教師こそ最大の教育条件」であり、加配教員の配置は、生徒の学力を引き上げる上で欠かせないものである。
 年により変動はあるものの、市芦に入学してくる生徒の「低学力」化は進んでいる。改めて驚くことは、小数点のかけ算の出来ない生徒が40〜50%いること、一桁の割り算のできない生徒が25%近くいるということである。このことはまた、とりわけ文章題で割り算の考え方を含む問題になると式が立てられないことを意味している。簡単な2次方程式になると60%以上の生徒ができない。
 10年以上も前から、多くの教育学者によって、「小学校で全体に3分の1が、中学校で残りの3分の1が、そして高校でごく僅かの生徒を残してほとんどの生徒が教科書について行けなくなっている」と言われてきたことを実証しているように見える。
 「低学力」生徒にきめ細かい指導を行うためには、何よりも加配教員を必要とした。授業中一人の教師では生徒の要求に応じきれない。このため、二人の教師が授業に入り、一人は特に基礎学力の欠落している生徒を重点的に教えるという複数担任制がどうしても必要であると考えられた。進学保障制度の実施により、市教委も学校側の加配教員要求に一時期応えてきた。
 数学科では、加配教員が昭和47年度、昭和48年度にそれぞれ一名配置され、昭和49年度には、知恵遅れ障害生の受け入れもあって、二名が配置され、教員数は8名になった。複数担任の授業を増やしていくために必要な人員増であった。 先に見たように、昭和50年度、第1回基礎学力診断テストで多数の低学力生徒の実態が明らかになった。この年、これらの生徒の学力を保障していくため、数学科ではそれまでの経験を生かし、一斉授業においては全時間を複数担任制にすると同時に、3名の知恵遅れ障害生を含む最も学力的に低位にあった生徒3名を合併して2コースに分け、生徒の学力実態にあったきめ細かい授業ができるように、一斉授業とは別に全時間取り出し授業を行った。新入生にとって最も手厚く教員が配置された年である。
 昭和50年度、上に述べた授業形態により、数学科の授業時間数が前年度の124時間から149時間へを大幅に増えたため、加配教員を要求したが、受け入れられなかった。それ以後、1年生、2年生、3年生と取り出しコースが増えていった時期も、教員数は8名に据え置かれた。昭和54年度以降は逆に加配教員が欠員未補充という形で引き上げられていった。昭和54年に1名、昭和58年に1名が引き上げられ、加配教員の引き上げは年々生徒の学力実態が悪化している状況の中で、きめ細かい指導を困難にしいった。このことは中途退学者が増えていくことと無関係ではない。数学科では、可能な限り複数担任の授業を守る闘いを続けてきた。

 (2)数学科における授業改革
 市芦における本格的な授業改革は先に述べたように昭和48年9月以降、部落研生徒を中心とする進学保障生による「わかる授業」要求を受けて始められた。それまでも教師側からの授業改革が進められていたが、せいぜい教科書を教師側から見て、わかりやすく教えるか授業外での補習で学力を補おうとしたにすぎなかった。しかしこの方法が義務制9年間を通して学力破壊を背負わされてきた進学保障生に通じるはずもなく、彼らにとって、授業はかいもくわからず、教室は苦行の場であることに何らかわりはなかった。
 教師が「わかる授業」要求を受けとめるということは、生徒が勉強できない責任を教師自らの責任として背負うことであった。これまでのように、その責任を生徒と親に負わせ、生徒を切り捨てていくことは許されなくなった。
 昭和48年の10月市芦に着任したK教諭は、2年生のクラスで副担任として授業に入ったときの、「わかる授業」を要求している進学保障生の一人であるDとの出会いを次のように語っている。授業は微分の授業である。
 「小学校から中学2年の秋まで何らの障害がなかったにもかかわらず、学力が低いということで障害児学級で過ごさされてきた部落出身生徒のDが、ひとり教室の一番後ろに席をとっている形を異様だと思った。この日配布されたもうひとりの教師が作成したプリントを、Dの横について『かみくだいて』教えようとした。Dがその私を拒絶したことはすぐわかった。できない子がいるからとは聞いていたが、その子が実際にどの程度できないのか知らなかった。四則計算も十分でないDに微分の話がわかるはずもなかったのである。その時は初めてのことで、そのことに気付くこともなく、他になすすべもなくて説明を続けてしまったのである。Dは授業の後廊下で泣いていて、わけをたずねた担任に『今度新しい数学の先生がくるいうから、どんな先生か思っていたら私のこと何もわかってへんやないか。わからへん言うてるのにそのこと何もわかっていない。今までよりも、もっと市芦が恐ろしくなっていくみたいだ』と、訴えていたという。
 途方にくれるよりほかなかった。
 ただはっきりしていたことは、教科書や教科書を引きうつしたようなプリントを『かみくだく』ことでは、生徒を『低学力』へ追い込んで着た教科の論理構造をていねいに跡追いするだけで、小学校、中学校と切り捨てられてきた生徒には全く通用しないということだった。私の担当となった数学Ubは、微分を終えたところである。このような生徒を前におきながら、積分の話をしなければならなかった」
 Dの答案用紙には、抗議文しか見いだせなかった。「わかりません。わからへんいうてるのに、テストするのは、私らの気持ち、わからへんからやろ。」
 Dの苦しみと要求は、先にあげた基礎学力を破壊された多くの生徒に共通のものであることを、数学科教師は自分の授業で手痛い失敗の連続の上に学んでいった。
 「わかる授業」要求に応えるために、教師は、学力的に最もしんどい生徒を視野に入れ、彼らにかみ合っていく授業を手探りで創り出していく以外に道はなかった。
 このような経過を経て、数学科は昭和49年度より、教科書の内容に沿いつつも教科書にたよることなく、数学教育協議会等すぐれた民間教育団体や他校の教育実践に学びながら、独自の教材を作っていくことになる。
 教科書信仰が絶対である中で、市芦が普通校であり半数以上の生徒が進学をめざしている限り、授業改革に対して不安に思う生徒や親がいなかったわけではない。しかし、比較的よくできるように見える生徒も、なぜそうなるのかという過程(たとえば−×−がなぜ+になるのか)など数学上の本質的な問いには非常にもろかった。あるいは、計算が機械的にはできても式が立てられなかった。つまり、本質的な数学的論理が理解できないまま、正誤判定の容易な問題の点数化された結果のみを見て満足して、授業を経過してきていたのである。
 数学科教師集団は「落ちこぼされてきた生徒をそのままにしてきた数学教育の不十分さと、最も基本的で本質的なところを十分理解させずに、思考過程よりも結果のみを重視してきた数学教育のダメさは表裏一体のことである」と認識し、「質の高い数学を分かりやすく教える」ことを目標に、最も基本的で本質的な数学概念を具体的な量を通して自分のものにしていけるよう工夫していった。生徒たちは、具体量から抽象化された数に移ったところでことごとく挫折していたからだ。
 一枚のプリントを作るのに、3人の一年担当が深夜に及ぶ討論をする。……あすの教材を作るのにあれやこれやの論議を繰り返して、夜の11時から、それじゃ書き始めようかということも何度もあった。だいたいの骨子はすぐわかっても、現実に教室に持っていき、説明するプリントを作る時の細部にわたる所はつねに頭を悩まさなければならなかった。1当り量を考える図、それをもとにした比例計算など、やればできると確信のもてる教材もあった。
 そうした取り組みを進めていった時、最も落ちこぼされて来た生徒の間から「私にも数学がわかる」という確かな反応が出始めた。
 進学保障生Nの入学時の学力は、2桁・3桁のたし算はできるが、ひき算になるとぜんぜんできない。それにかけ算の九九が身についていない。だから「かけ算」になると、まるっきり駄目であった。
 Nらはほとんど毎日、放課後四則計算の練習を行った。練習は教科担任又はクラス担任が指導した。九九が不安であったNは夏の合宿での学習で九九をマスターし、どんな形であれ、整数のかけ算、割り算ができるところまで成長した。その練習帳は膨大なものである。
 Nらは、一斉授業の中で、時に「私にもわかる」という実感に支えられて、がんばり続けた。生徒たちは自分の要求と授業が一致する時、彼らの学習意欲は見事に形となって引き出され、必死になって、自分で勉強をやり始める時がある。そうした時、彼らは目に見えて成長していった。
 Nは「今まで小学校、中学校に行ってて、おもしろいことひとつもなかったけど、高校になってから数学が面白くなってきた。私が高校に来るのは、数学がわかるからや」と担任に話す。「授業がわかる」ということは、彼らにとって、学校が「生きる場」「存在しうる場」となることである。しかし、時に「わかる授業」があるにせよ、小・中学校9年間にわたる学力的な落ち込みとまわりのさげすみは容易になくなるものではない。
 時には、「いつまでもこんなやさしい授業をしているのか」という声が一方でおこることもあった。それは、クラスのあり方を決める基本的な問題でもあった。一斉授業を成り立たせていくために不可欠のもうひとつのことは、「わかる授業」の要求をクラスの問題としていくことであった。
 市芦の教師集団は、授業改革に先立ってホームルーム(クラス)を学校生活の基礎にすえ、「3年間、クラスの仲間と教師がとことんつき合うことで、人間としてのまともな生き方を学びあい、学力をつけ、お互いの進路を切り開いていく」場にしていくということで、3年間、クラス替えなし、担任・学年の教師持ち上がり制にすることを決めてきた。
 なぜ「わかる授業」を要求するのかを、自分の生育史や生活現実に照らして語っていくことは、我が身を晒すことであり、後戻りできない位置に自分を置くことであった。わからないことを負目として恥ずかしく思い、身を小さくしている以上、授業は苦痛以外の何物でもなかった。クラスで自分の話をし、居るべき位置に自分を居直らせた時に初めて、まわりの子を気にしながらも分からない点を質問していけた。自分の話を他人事でないと受け止める仲間に出会い、周囲の生徒の質問もひきだしていった。そういう関係ができたとき初めて、クラス全体が学習の場となり、安心して授業に座れるようになるのである。
 勉強がわからなくてくやしい思いをしたことは、市芦にくるほとんどの生徒に共通のことであり、なぜ「わかる授業」を必死に要求するのかという話は、何にために「学校に来るのか」という基本的な問いでもあった。その話は、クラスの生徒にも「学校にくることの意味」を真剣に問うものであった。
 K子は在日朝鮮人生で、学力的には最も落ちこぼされてきた生徒の一人である。「私は小・中学校と数学が苦手だったのに、高校に入って、数学を教えてもらうと少しわかるようになってきた。その味を覚えると、納得できるまで知りたくなって、わかるまで教えてもらうようになった。授業中でもわからないところがあったら、『ここわからへん』と言えるようになった。先生がしつこいくらい、私がいやになるまで、ゆっくりとていねいに教えてくれた。小・中学校の時はわからない所があったら放っておいたけど、高校に入って、いろんな面でずいぶん私は変わってきた。私が変わったのも、きっと、本名を名乗ったからだと思うし、自分の話をホームルームでしていけたからだと思う。」と述べている。
 このようにして、私たちは、学年会議、教科会議、教材研究、時間外での勉強、ホームルーム活動を密に結ぶことで、他方、生徒にきめ細かい指導を行うため、複数担任制や取り出し授業が行えるように加配教員を配置させることで、「わかる授業」の要求に応えてきた。
 市芦の授業においては、現在では、生徒間の学力差は、授業を進めていく上でほとんど問題にならないほど平均化してきている。3年間クラスを解体することなくお互いがとことんつき合う中で、わからない生徒には理解できた生徒が説明していく関係が生じる。そのことは理解できている生徒にとって、自分が理解できたことを人に説明できるという一層の力が要求されるし、また、できない生徒は友だちに説明されて、わかるようになることも多い。
 一方、市芦には、これまで述べてきたような教育活動により、生徒が教師に自由にものを言っていける雰囲気が作り出されていて、授業が済んでも、生徒は、教科担任やクラス担任のところへやって来て、わからない点を質問しつつ、自分の進路に応じた勉強に取り組んでいった。
 私たちは試行錯誤をしながらも、生徒の学びたいという意欲に支えられながら、四則計算(特にたし算をかけ算)ができれば、それを基礎にして、高校で習う数学(教科書にそった内容)を身につけていけるような、本質的でしかも分かりやすい教材を作り上げてきている。
 3年間を習い終わって最後の時間に行った「高校3年間で学んだこと」というアンケートで、Mは次のように述べている。
 「やる前は市芦の数学かと思っていたが、いま全部をやり終えて、大分役立った事も多かったし、高校で習う数学の基礎的な所は一応やっていた。授業をちゃんとやっていれば、まずまず基礎ができているので、受験勉強も一人でできると思う。」彼は理科系大学へ進学していった。

(3)実際の教材例
 先に数学科教師は教材を作っていく際に、基礎的に重要なことを具体的な量を通して、生徒が自分のものにしていくよう工夫していると言ったが、その一例として高校数学の最も重要な柱の一つである微分(2年生教材)の導入の教案を示す。(四則計算から出発して微分にいたる授業経過を〈注〉に示す。)@ 斜面をころがるボールの速度はどうなるだろうか?
  ……(実験を行う。斜面は加速の事実が具体的に取り出せるよう、十分長いものを用いる。)

 

だんだん速くなる

 

……(実験を通して、自分で見つけさせる)

  自分が知っている速度の式

                        すすんだ距離      △y

               速度=

 

 

                        かかった時間      △x

では上事実を表せない。

   だんだん速くなるという事実の中に微分の本質がまるごと内蔵されている。(ニュートンが微分を発見した。そのことの自分らなりの追体験を行う。)疑問に思うことを深く考えること。そのことで私たちは一気に物事の本質に迫ることができる。                                                       

A 速度をできるだけ正確に測るにはどうしたらよいか?

 たとえば、

 ・時速……1時間中同じ速度で車が走るとして、1時間に走る距離のこと。    →(1時間も同じ速さで走り続ける車はあるか?

 ・スピード違反はどうして測っているか?

 ・その他

 

 

測っている時間間隔を短くしていく

 

……(気付かせていく) 

B 測っている時間間隔を短くしていくことで、だんだん速くなることを表せるか。速度の式を使って挑戦してみよう。

                y=f(x)=5x ……(落体の式を使う)

   問1 1秒の時のボールの位置 f(1)=

      2秒の時のボールの位置 f(2)=

           3秒の時のボールの位置 f(3)=

      問2 1秒と3秒の間の(平均)速度は?

          △x=                                △y

                                              

 

             △y=                                 △x

      問3 2.5秒と3秒の間の(平均)速度は?

      問4 2.9秒と3秒の間の(平均)速度は?

      …………と、次々と問いを発していく。

 

 

 

2.9

3

 

2.99

3

 

2.999

3

 

2.9999

3

 

 

3

3.0001

 

3

3.001

 

3

3.01

 

3

3.1

 

△x

 

0.1sec

 

0.01

 

0.001

 

0.0001

 

 

0.001

 

0.001

 

0.01

 

0.1

 

△y

 

△x

 

29.5

 

m/sec

 

 

29.9

 

 

29.995

 

 

29.999

 

 

 

30.000

 

 

30.005

 

 

30.05

 

 

30.5

                             →  ← 

 このようにして、具体的に3秒の時の瞬間速度を自分の手で求めさせる。
 生徒たちは「こんな細かい計算!」とか言いながら、必死になって求めるようになる。その計算の意味を表にすることで、具体的な瞬間速度のあることを実感する。
<高校数学の大きな流れの一つは、微分(2年教材に向かう。したがって、微分を学習することを見込んで、四則の計算から出発して、1年かけて準備する。
@ 速度:1当り量を中心にして、かけ算、割り算の仕組みを学ぶ。特に速度に関係する問題を多く解く。
   ……1年1学期
A 記号の使い方      △x:変化の量を表す
    △x=(あとの量)−(さきの量)
   ……正負の数(1年1学期)で導入
B 関数:  y=f(x)=5x ……落体の式
 関数は関数記号の使い方を含めて、1年生の教材の柱のひとつ。十分時間をかけて授業を行う。

(4)取り出し授業の実践
 取り出し授業については批判もあり、見直されなければならない点があるが、当時の試行錯誤として通過しなければならない取り組みであった。
 市芦における本格的な障害生教育は、進学保障制度に基づき、昭和49年4月、市内の中学校を卒業した障害児学級在籍の知恵遅れ障害生を入学させたときから始められた。

 「親として、尊い命をもって生まれてきた子供に対し、私共が年老いても、死した後も、何とか一人前の社会人として生活していける力を身につけるよう最大限の……今から思えば、毎日修羅場のような努力をしてきましたし、今も直面しています」
 この親たちの願いと努力に接続するために、障害生の教科指導にあたっては特定の専任教師に任すのでなく、各教科が責任を持って、出来る限りの学力をつけよう、そしてその成果を持ち寄って障害生の進路を考えていこうということが職員会議で決められた。数学科では障害生の学力を引き出し伸ばしていく方法として、生徒の状況に応じて個別指導も行えるよう、学年によって1〜2コースの取り出し授業を行ってきた。それにしても私たち数学科教師は障害生にこたえるような教材は全くといっていいほど持ち合わせていなかった。私たちに幸いなことは「わかる授業」要求を受け、かけ算や割り算のやり方をもう一度見直し始めていたことである。その地続きとして、障害生の授業を考えていくことが出来た。
 知恵遅れ障害生にわからせ出来るようにするために工夫された教材は、一斉授業に座る低学力生徒にとっても、彼らのつまずきを越えていくための格好の教材になり得る。逆のことも言い得る。このような教材として、私たちはMAS式かけ算、かけ算方式による割り算、分数計算、1当り量を中心にすえたかけ算、割り算の文章題等を作り出してきた。
 私たちは、この取り出し授業を通じて、障害生もまた「授業がわからない苦痛」「理解しようとする努力」「理解できたときに表す大きな喜び」を持っているということ、言い替えれば「どんだけ勉強したいんか」ということを教えられてきた。
 Iとは、一桁のたし算(たし算の九九に相当)の定着をめぐって、足掛け3年の日々が流れる。授業において、そればかりをやってきたのでない。ひき算やかけ算の計算の場合もどうしてもたし算が必要になってくる。これだけはどうしても越えようと思う。普通なら生徒も教師もすぐ退屈してしまいそうなものであるが、教師側が退屈したり、いやになったりしないだけのものをIが示し続けたのである。
 かけ算の九九を覚えるより、はるかにたし算の九九を覚える方がむずかしいということを教えられもした。というのは、四則計算は普通はたし算から入る。ところが、たし算の導入のやり方は、数をかぞえる方法から、指、タイル、棒、点を使う方法等が色々あって,Iの場合などはどれも中途半端に終わっている。その点、かけ算の九九は反復練習することで、定着が比較的容易である。こちらが持ち込む教材がどれだけ不十分なものであるかも思い知らされてきた。
 Iは7ヶ月の早産で未熟児である。成長がおもわしくなく、言語障害があるということで、親はあちこちの病院をたずねた。父母の努力にもかかわらず、障害児ということで土地の小学校に入れてもらえず、1年遅れで篠山から芦屋にある三田谷治療院に入る。それ以来、夏休みの一時期を除いてずっと三田谷で大きくなった。中学校は三田谷から芦屋市立精道中学校に通学した。市芦へも三田谷から通学してきた。
 Iは小柄であるが、運動神経がよく発達した敏捷な生徒であった。一夏で泳ぎを覚え、何メートルでも泳げるようになった。言語障害があって、甲高い声で早口にしゃべる内容は何を言っているのか聞き取りにくかった。授業中、話合いになるとコックリ、コックリしだす。話を聞いても、ほとんど何も返ってこない。初めは手に負えないなと思ってしまう。
 数学でいえば一桁のたし算が出来ない。数も50ぐらいまでしか数えられない。取り出しの4人の授業でIが一番しんどい。副担任に入ってもらう。
 3+4=? 指一本一本数えていって、「7や!」と言う。4〜5才の子供が数いうたら、こんなふうに覚えていくんやなあ!そんなところにIはととまっていたんやなあ!と思う。
 ある時、28+3=?という問題にIが出会ったとき、どうしても30と答える。31と違うんかと言って、何度やらしても30と答える。説明して31で納得する。しばらくしてまたやらすと30と答える.Iは28から3つかぞえる時は決って28から数える習慣になっていた。そんな時、鉛筆を持ち込んで、29から3つかぞえて31になることを体得する。いつまでも数えていたり、図に頼っていては、それ以上の前進はない。頭の中でパッ、パッと反射的に出来るようにならんとあかん、2+3=? 5+3=? こっちも必死でなんべんかどなる。そしたら、ワーと頭をかかえて泣き出す。教師に怒られたこともあるが、こんなんできへん自分がはがいてかなんと言うあたりがこっちにも痛いほど伝わってくる。2年の最初に書いた文章の中にも「数学はO先生に怒られて、ぼくは泣きました。数学はいやーんといった」と書く。
 副担任のS先生が10題ぐらいの問題を出して、時間をはかる。全部出来るととても得意になる。2〜3回間違えるとものすごくくやしがったりする。
 一桁のたし算が出来るようになって、自信をつけてきたなあと思えるころには、「ぼくは数学の勉強はかけ算とたし算だけならっています。一番うれしい勉強が数学です」と書く。
 このころになって初めて、彼は自分の要求をクラスに出す。「ぼくはホームルームでみんなの意見聞いて、ぼくはわからないといった。でも、ぼくはクラスの生徒が言うのは速いと思った。ゆっくりと言うて下さい。」その時、初めて、話合いになると彼がコッリ、コックリしだす理由が痛いほどわかる。
 生徒は何かが自信をもってやれるようになった時、長い間、言っても無駄だと思い続けてきた要求を出し始める。
 Iにとって、一桁のたし算を自分のものにするということは、単に技術的なものを身につけるということではない。どれだけ勉強したいかという要求を示し、実現することである。それは、障害児というレッテルをはられ、放置されてきた彼固有の位置からの告発である。
 Iを通じて、落ちこぼされてきた度合の深さの共感が授業に必要なのだということを改めて教えられた。それは低学力生徒と地続きである。

 上に述べたような数学科における学力保障の取り組みは、各教科においても、その理念、構造、特質を極めながら、試行錯誤を含みつつ、取り組まれてきてきた。