3、進路保障の取り組み

(一)進路保障のあり方の変革
 (1)進学一辺倒の進路指導から「進路保障」へ
 市芦が、進学保障制度を実施することによってこれまで高校から排除されていた生徒に門戸を開き、彼らを含めた全ての生徒の就学保障に取り組み始めると、市芦の取り組みに期待をよせて、生活破壊とそれに起因する学力破壊を「低学力」という形で引きずった生徒たちが多数入学して来るようになった。そのため、「低学力」や経済的な理由などによって卒業後の進路に就職を希望する生徒が増えて、これまでのような進学一辺倒の進路指導では生徒の希望に対応できなくなってきた。
 就職する生徒の割合は、2〜7回生の平均では14%であったが(進学46%、残りの大半は受験浪人)、進学保障生の受け入れを始めた10回生以降の就職生の割合は以下の通り、就職希望の生徒が半分以上を占めるようになってきた。

   回生   入学数   卒業数   就職%   進学%
                              
    10     167    170     15     84
   11    176    169     23     40
   12    169    163     29     33
   13    142    135     36     40
   14    164    150     42     38
   15    161    146     31     47
   16    131    112     52     45
   17     166    156     51      35
   18    148    117     48     44
   19    156    139     51     41
   20    131    115     50     34
   21    108     75      47     41
   22    149    120     44     36
   23    145     123     45     43

そのため、市芦ではこれまでのような模擬試験の偏差値による生徒の大学への振り分け作業を中心とした進学一辺倒の進路保障から、就職指導にも目を向けた進路指導へ変更せざるを得なくなったのである。が、それは単に就職生の数が増加したことだけが原因ではなかった。就職生の背後にある生活から発せられる「なんとしても就職したい」という切実な要求は、生徒やその家族の生活権・生存権と結び付いているだけに、どんなことがあっても実現させなければならないものであった。それ故に、私達はそのことに目を背けて進路指導をするわけにはいかなかった。 そういう視点のすえかたをして進路指導をしていくと、切実な就職要求の源となっている彼らの生活そのものが、就職差別の対象となっていることに私達は気づかされていくのである。つまり、企業は、本籍・親の職業・収入・家の畳数・家族の病歴・紹介者・縁故等を細かく「社用紙」に書き込ませる。生徒たちは、「社用紙」の中に彼らの抱えもつ生活を子細に記入させられ、その内容によって差別され不合格にされる。「社用紙」に代表される企業の差別体質は、被差別部落出身生徒や在日朝鮮人生徒や障害生を直接そのことを理由に就職から排除してきた。さらに「家庭破壊」「単親家庭」「貧困」の中を精一杯生きてきた生徒を、そのことを理由に不合格にしてきた。
 従って、切実な就職要求を持つ生徒の進路指導を考えていくとき、生徒を企業の用意する評価基準の中へ投げ込むだけで済ませてきた進路指導のあり方を見直さなければならなかった。そのために、兵庫県下の先進的な就職差別反対闘争に学びながら、最も就職を必要としている生徒が、最も就職から排除されるという選考のあり方を見直すことを、企業に要求して、生徒の進路保障の取り組みを進めていった。
 このとき初めて、市芦の進路指導の中に「進路保障」という考え方が生まれた。それまでの市芦の進路指導の中には、成績などによって受験先を割り振るだけで、「進路保障」という考え方はなかったのである。
 こうして、市芦の進路指導は、特に進学保障生をはじめとする最も切実に就職を希望している生徒の就職保障の取り組みを軸に展開し、そして、全ての生徒の就職保障へと発展していった。しかも、その就職生への手厚い進路指導のあり方は、進学する生徒の進路指導にも生かされていった。

 (2)進路保障のための学力保障
 つまり、「低学力」層の生徒たちが市芦を頼って集まって来るようになると、就職生も進学生も学力の点でいえばほとんど差がなくなり、むしろ家庭の事情で就職していく生徒の方が学力的には上位にあることも希ではなかった。生徒の進路保障を考えていくためには就職生、進学生の区別なく基礎学力の充実の取り組みが3年がかりで進められることが必要だった。市芦にやって来る生徒のほとんどが、通り一遍の受験指導だけでは進学も就職も出来ない状態なのである。
 特に、昭和53年度からの小・中学校の加配教員の引き上げ以降、教師一人当りの生徒数の増加によって、教師の努力にもかかわらず指導から漏れ落ち、基礎学力が抜け落ちたまま小・中学校を過ごして市芦にたどり着く生徒が増えた。市芦では、加配教員の削減と闘って教員数を確保しながら、生徒たちの学力保障のための授業改革や課外指導に取り組んできた。例えば、授業では、教科書が分からない生徒たちに、生徒たちの力に応じた、生徒たちが取り組め、力を伸ばしていけるようなプリント教材を用意し、また、放課後には勉強会を準備すると共に、休憩時間や放課後を通して生徒がいつでも気楽に質問に来ることが出来る雰囲気と態勢を整えて学習指導にあたった。教科書をそのまま教えるというような授業ではなんの学力保障もできないばかりか、生徒たちを一層挫折させるだけなのである。

 (3)共に学び、共に進路を切り開く
 また、私達が進路保障を考える上で大切にしてきたことは、「学力保障」に加えて、「共に学び、共に進路を切り開く」という考え方であった。さまざまな学力の子が、さまざまな条件を抱えて1つのクラスで学び合い、それぞれの条件・生き方の上に自分の進路を決めていく。そのような進路の決め方が、3年間クラス替えも担任替えもせずに行われるホームルーム活動の中で追究された。
 また、ホームルームだけでなくクラスをこえる「進路を考える集会」でも生徒たちの立場の違いや考え方の違いがつき合わされ、討論は深められていった。
「私らは、朝鮮人やいうだけで就職試験に落とされる。就職差別されるのが分かっているけど、頑張っていこう思っている。日本人の子は、日本人やいうだけで合格していく。だからといって、日本人の子に何かして欲しいといっているんやない。せめて、日本人の子は就職のことを真剣に考えて、真剣に受験して欲しいと思うんや」
 就職生集会の中での在日朝鮮人生徒からの日本人生徒への言葉である。一瞬にしてその場の空気が張りつめる。就職差別の予感の中で自分の生き方を手探りしながら進路を考えてきた生徒が、就職生集会やホームルームの中で討議に命を吹き込んできたのである。
 「何で就職するんや」「何で進学するんや」という問いかけがホームルームでなされ、「働くのがいややから就職するんや」「勉強するんがいややから就職するんや」といった無気力な、逃避的な進路選択がホームルーム討議の中で質されていく。「そんな進学の仕方は、親に甘えているだけやないか。金がなくて進学できない子もいるんや。目的も持たん進学が許されるんか」「就職するいうんは、進学して勉強するんより大変なんや。勉強がいややから働くいうだけで、仕事続くんか。就職差別受ける子がいるのに、合格していける子がもっと真剣に考えんでどうするんや」
 就職生集会の中での就職生同士の点検作業が行われ、ホームルームの中で就職生・進学生を交えての点検作業が行われる。さまざまな立場での進路選択が突き合わされながら、本当の意味での親の願いに応える進路の決め方へ向かって、討議が進められるのであるが、就職差別を予感しながら市芦の3年間を過ごしてきた生徒が、最も良質な進路・生き方の選択を就職生集会・ホームルームの中に提示しながら、討議は深められてきた。

 (4)就職差別と生き方の選択
 しかし、共に進路を切り開こうとしていた生徒たちが一斉に受験していったとき、就職差別が無惨に生徒を切り裂いてしまうことがある。その典型として、昭和51年の事例がある。神戸に本社のあるK社を在日朝鮮人生徒と日本人生徒が2人で受験したとき、学力的にも優れていると判断されていた在日朝鮮人生徒が不合格にされ、日本人生徒だけが合格した。企業に確認すると2人の試験内容が違っており、試験内容においてもすでに差別されていたことが分かった。
 そういう状況に常に立たされ続けた被差別の側の生徒たちは、それでも自分の背負った被差別を、就職試験の場面においても背負いきって企業と正対しようとしてきた。
 「(職業安定所の指導する)質問禁止事項に応えて有利になる子もおれば不利になる子もいる。俺は部落で母子家庭やから、答えたら落とされると思うけど答えていくつもりや」「就職という問題はみんなの一生の問題やから、みんなで決めたからするということではなくて、一人ひとりが自分で決めたらええと思う」
 就職生集会の中で、就職差別にどの様に対処していくのかを生徒と教師が一緒になって話し合っているとき、一般の生徒から提案された「差別につながる質問に対しては、みんなで答えないようにしよう」という発言に対してなされたものである。
 被差別の側に立たされ続けた生徒たちは、自分の生き方の選択として就職試験を考えてきたし、また、周辺の生徒にとっても進路の問題は、進路の選択にとどまらず受験の仕方も含めて生き方の選択といった要素が含まれていた。
 共に進路を切り開くという発想は、自分と他者を意識しながら、自分の生き方の上に、家庭の状況などを十分考慮して進路を決め、クラスの最後の一人の進路が決定するまでみんなが緊張を共にして教室に座り続けようということであった。
 受験競争をあおることによって生徒の間に分断と利己主義を持ち込んできたこれまでの進路指導に代わって、被差別の中を生き抜かなければならなかった生徒の進路指導を中心にすえ、あわせて周辺の生徒の人間的再生を図り、共に生き方を問いながら進路を切り開いていくものへと進路指導の質的転換が図られてきたのである。
 こうした取り組みの中で、あらゆる差別的なことがらへの改善の努力がなされ、昭和48年度末、ごく普通の大学受験生による、差別的身元調査につながる大学への戸籍謄本の提出拒否の取り組みも行われた。
 また、こうしたさまざまな共に進路を切り開くというホームルームの取り組みの中で、生徒たちは自分の立場をあきらかにしたまま伸び伸びとクラスの中に存在できるようになり、「低学力」を恥として隠し続けなければならなかった生徒も、授業の中で自由に質問が出来るようになり学力保障も前進した。
 市芦では、こうした3年がかりの学力保障・生徒指導を通して進路保障の問題を考えるようになってきたのである。

(二)入学から卒業までの取り組みの上に立つ進路保障
 (1)「最後の学校」としての高校
 市芦の進路保障の取り組みは、入学から卒業までの一貫した作業の中で取り組まれてきた。特に、「就職保障」はそれ以外の方法では成立しようがなかったのである。
 大学進学を目指す生徒にとっては、高校は、小学校・中学校・高校・大学と学歴を登っていくためのエスカレーターの単なるワンステップにしか過ぎない。しかし、就職していく生徒たちにとっては、市芦は「最後の学校」となる。彼らは、高校3年間に教科学力のみならず、社会の中を生き抜いていくための土台をしっかりと作り上げておかねばならなかった。小学校の頃から大学受験を目指して手厚く整えられた学習条件の下で育った生徒たちと違って、私達が就職保障の取り組みの中心にすえてきた生徒たちは、著しく破壊された教育条件の中で、適切な学習指導を受けられぬままに教科学力に遅れを生じていた。その傷は深く、彼らの努力にもかかわらず、卒業までその傷跡を引きずらねばならなかった。さらに、彼らにとって何よりも大変だったのは、「低学力」の原因となった荒れた家庭の中で自分もまた荒れて生きるしかなかった彼らが、何を契機にして積極的な自分の生き方をつかみ取るか、という作業だった。市芦は、生徒たちが生活を立て直す場所でもあったのである。
 「低学力」の克服のために苦闘し、荒れた生活を立て直し、憎み合って一緒に生活してきた親の存在を見直し、親や自分の生きてきた苦闘を自信に変えながら、市芦で3年間かけて進路の決定へ向けて彼らは歩を進めてきたのであった。

 (2)生存権保障としての進路保障
 典型的な取り組みの一例を引いてみたいと思う。それは、1年遅れで市芦へ入学してきたTのことである。入学当初から授業を抜け出して単車を乗り回し、家に帰るのは深夜という荒れた生活を送る彼を、学校へつなぎ止めようとする努力の中から、その厳しい実態が明らかになってきた。
 雑誌「解放教育」の昭和62年4月号に掲載した記事からの要約を引用しておく。
 ***中学卒業後、カマボコ工場、ガソリンスタンドと職を変わり、中学の教師が高校を受けてみないかと家を訪ねた頃には、父親と一緒にトラックに乗ってゴミ集めの仕事をしていた。「残飯の汁が口の中にはいる。腐ったキャベツのたまらない臭いがする。焼却場の釜にゴミを放り込むとき真っ黒な煙で息をすることもできない。頭や顔はすすだらけになり、唾を吐くと真っ黒だった。」と彼はいう。ゴミ集めの車の中からみる高校生の姿を羨ましく思い始めていた彼は、「高校へ行ってもいいか」と母親に尋ねた。返事は重かった。アルコール中毒の父親は、借金に追われて働き、家政婦として働く母親の収入は僅かなものだった。中卒で働きに出た3人の兄はほとんど家から切れ、外で作った借金の請求書だけがときおり家に届くだけだった。Tの稼ぎを失うだけでも痛いのに、さらに金が出て行くのだ。切ない気持ちで進学を頼む子の前に、手放しでそれを喜べぬ母親がいた。その無理を受け入れてもらって入学を果たしたとき、Tは、兄達の誰も行ったことのない高校に入れたと大喜びをしたのであった。
 その彼が、入学後わずか1カ月で退学すると言い出した。家庭訪問をした教師の前に、4畳半2間と台所だけの古い文化住宅の入口で1升瓶から酒を飲む父親の姿があった。父親は、敗戦後、焼け跡でクズ集めをすることから結婚生活を始め、現在のゴミ集めの会社に雇われた。劣悪な労働条件の下でしだいに酒におぼれ、荒れ続けていた。
 「親父は年中酒を飲んでは愚痴をこぼし、借金が苦しいからとおふくろが言うと、すぐうるさいといって茶碗を投げた。僕はこんな親父がはがゆかったから、よく殴りあいのけんかもした。僕が小学校の頃、親父は晩になるとおふくろにパチンコに行くから金を出せといった。ご飯の用意のお金しかないとおふくろが言うと、僕らが食べていたご飯を放り投げ、ふて寝をした。おふくろは散らかった茶碗を泣きながらかたづけていた。アルコール中毒の父親は、ときどき幻覚を見て家の中で暴れた。そんなとき、おふくろはたまりかねて、深夜僕の手をひいて毛布1枚だけもって家を出た。芦屋の浜をぶらぶらし、あんまりしゃべらず、ただ歩いていた。夜中の3時ぐらいになって、『T、帰ろか』といって帰った」
 自分だけが好きなことをして、Tや母を苦しめているように見える父親に、Tは敵意をむき出しにしていた。勤め先で人並に扱われぬ惨めさを愚痴にして吐き出す父親の悔しさを少しは思いやれ、といいながらも、Tの気持ちも気安く批判できるものではなかった。
 Tが学校をやめるといったとき、学校をやめろとも学校へ行けとも母親は言わなかった。「Tが生まれた頃、私もクズ屋をやっていた。1日でも休むと食べて行けないから、Tを生む直前まで、足を伝って落ちて来る血を拭いながらリヤカーを引いていた」というような話で時間を費やした。「高校へ行くといったときも返事が重かったけど、学校をやめるといったときも返事が重かった」というTは、母親の雰囲気に押されて学校を続けることになった。しかし、学校生活は依然として荒れたままであった。
同じことを繰り返し言うことしか出来ぬ教師の前に、ある日ふらっとTが話をしにきた。「きのう、親父と話をした」というのである。国鉄芦屋駅の前で三色団子を売っているのを見て、ふと「今日は親父が家に居る。腹へっとん違うか」と思ったというのである。Tが「三色団子買ってきたで」というと、父親が「わしが茶いれるわ」といった。たったそれだけの会話だったが、Tは「初めてや」と驚いていた。初めて父親の本当の姿を見たのだろう。父親は、このたった一度の親と子の会話をして、間もなくこの世を去った。肝硬変による食道静脈瘤破裂だった。その最後をTは次のようにかいている。
 「1年生の終わりごろ、僕が学校から帰って来ると、親父が布団の中で震えていた。僕が『おとん、どないしてん』と聞くと、『血を吐いた』と言った。そして、親父の布団をめくると、何もきていなかったので、タンスから下着を出し、着せた後、便所に行ってみると、そこは血だらけだった。初めは話をすることが出来た親父だったが、時間が経つにつれて話すこともできなくなっていった。そしてただ時々、苦しそうに手を振り回したり、首を振ったり、体を動かし回ったりしていた。僕はそんなおやじを見て震えて『おとうちゃん、大丈夫か』としか言えなかった。親父が時々静かに眠るとき、おやじ、何しに生まれてきたんやろうか、本当に好きなことばっかりしてきたんやろかと思った」
Tは父親から最も大切なものを引き取った、と私達は思った。生活を崩していたときでも、Tは学校へつながり続けることで、部落出身を名乗った生徒や本名を名乗った在日朝鮮人生徒の座り続けるホームルームの中で、あるいは奨学生を軸にした生徒集会の中で、少しずつ鍛えられ、彼の荒れた生活の奥底に眠っていた感性が少しずつ引き出され、開かれていったと言える。このことがあったからこそ、父親の死に直面したとき、彼は一気に父親のもとへ回帰することが出来たのである。
 彼は、しんどい子も来れる自分たちの学校作りをめざして生徒会長に立候補していった。全校の生徒を前にした立候補演説の中で、「親父が意識がないのに手を振り回しているのを見て、何もいいことがなくて死んで行くのがくやしいんや、と僕もおかんも思とった」「ホームルームの話合いに参加していなっかったら、きっとあんなおやじ死んであたりまえやと思っていたと思う」とTは話した。このとき、私達の中に彼の進路保障を闘う決意がより強固なものになっていった。
 TはK社を希望していた。しかし、K社の求人票は、まだ学校に届いていなかった。オイルショック以降の不況が求人件数を減らし、親の中にも失業者が出ていたから、生徒の進路保障は一層大切なものとなっていた。求人活動が強化された。求人票が届くと、私達は、3年間を通してみてきたTの姿とその評価を、就職応募用紙である近畿高等学校統一用紙「兵庫県版」(兵庫県進路保障協議会所定用紙)(以下、統一用紙「兵庫県版」という)に文章表記してK社へ提出した。統一用紙「兵庫県版」とは、成績や行動・性格などの点数のみによる評価から、3年間の生徒の学校生活全体を通して生徒を正確に評価してもらうための「総合評価」に変えていこうとして、近畿高等学校統一用紙にさらに改善が加えられたものである。従来の「行動および性格」欄のA・B・C記入や○印記入を廃止して全面文章表記へと変え、また「教科学習成績」欄も点数不記入、単位数のみ記入とし、新たに「学習成績所見」欄が設けられ、文章表記によって総合評価が得られるものへと改善が加えられたものである。提出時に人事担当者に書類を読んでもらい、その評価を聞き、学校側の書類を選考書類として十分活用してもらうことを依頼するなど、丹念に進路保障の要請活動を展開した。Tは合格した。
 表だった闘争になろうとなるまいと、これが私達の進路保障闘争である。
 「僕ら、おかげで一生懸命生きています」と、昭和62年1月、Tは教師に宛てた年賀状にかいてきた。そして、市芦への弾圧に抗議する集会の後、「いま、市芦を卒業し就職をして頑張って生きて来れたのは、市芦の先生のおかげです。生徒一人ひとりのことを考えてくれる市芦を、ごく一部の人間によって壊されることは、僕たちが市芦で教えてもらったこと全てを否定されることであり、今の僕の生き方自体も否定されるものであります」という文章を寄せてくれた。彼はK社の能力主義による人事、会社運営に反対しているとも聞いた。Tが就職したK社が、彼と彼の父親がその裏口でゴミ集めをしていた会社であったことに私達が気がついたのは、ごく最近のことである。***

 (3)教員の自主活動の上に成立した進路保障の取り組み
 Tに見られるような生徒の3年間の(あるいは18年間の)苦闘の延長線上に成立した「進路保障」の取り組みは、それに付き添う教師の自主的・創造的教育活動とそれを実行するための膨大な量の時間外労働を必要とした。現在実行されているような、職員会議も開かず、「私は禁治産者」「私はロボット」という校長の処分を背景にした職務命令によって行われる校務運営や、勤務時間厳守による教員の校内拘束(現行8時45分から4時23分まで学校に縛りつけ、それ以外は勤務しなくてよい)による時間的・空間的枠で規制された取り組みではとうてい成立し得ないものであった。教師の自主性・自発性に依拠した教育活動の中ではじめて、例えばTのように、父親の悔しさを知った瞬間が学習意欲を取り戻す瞬間であったというような場面が出現する。
 学力的にも、生活的にもTの様な状況を抱えた生徒は、1クラスに平均7〜8人いた。従って、特に、入学当初は連日家庭訪問が続く。その後も、ほとんど気の休まる間もなく、生徒との格闘が続いていた。生徒が夢の中まで追いかけて来ることも希ではなく、自立神経失調症・心身症になって倒れる者も出るほど過酷な労働が続くのである。放っておけばおそらく学校から切れて社会の片隅に追いやられていく生徒たちを、辛うじて学校へつなぎ止め、彼らが正当な生き方を獲得するのを多少なりとも援助してきたというのが、私達の進路保障の取り組みの社会的意義であったと思う。そして、そのことは公立高校が社会的に担わなければならない任務の1つである。
(三)就職差別反対闘争
 (1)学校の中での差別との闘い
 3年間の苦闘を乗り越えて、生徒が社会へ踏み出そうとするとき、就職差別という大きな壁に出会うことがある。その時、生徒と共に就職差別反対闘争を闘うということが私達の進路保障運動の中で大きな位置を占めてきた。在日朝鮮人生徒Cの場合を例に引いておくことにする。
 Cは「Y]と言う通名で小学校時代を過ごして、中学校入学直前に芦屋市へ移ってきたのをきっかけに、日本語読みの朝鮮名「T]を名乗った。
 「それから、私は冷たい差別を受けてきた。男の子は聞こえよがしに、『朝鮮人てきたねーねんぞ』と横目でちらちら私の方を見ていたり、女の子は、5人ぐらいで私を囲い、リーダーの女の子が私のほっぺたをピシツとたたいた」
 「T」と名乗ってから小学校を卒業するまでの3カ月間、「いい思い出がひとつもない」という。中学校に入ってからも差別は続いた。
 「教室の後に、ロッカーが置いてあり、そこに私はスケッチブックを入れてた。使おうと思って出そうとしたら、黒マジックで『チョンコ・T』って書いてあった。思わず消しゴムを持ってきたけど、消えるわけがなかった。こみ上げてくる涙を、必死にこらえた。いまここで涙を流したら、私の負けになる。泣いたらあかん。泣いたら負けや・・・。そんなことをずっと思いながら、私は、人前では涙を決して流さなかった」と彼女は言う。
 その彼女が、市芦に入学するのをきっかけに、さらに一歩踏み出して本名「C」を名乗った。「C」と呼ぶときの音の響きは、まさしく「朝鮮人」であることをさらした響きであり、彼女が「チョンコ」と呼ばれて差別されたときの「チョン」の響きそのものであった。在日朝鮮人生徒が日本の高校の中で本名を名乗り、朝鮮人であることをさらして3年間を過ごすということは、大変な闘いとなるのだ。朝鮮人として存在し続けることを押しつぶそうとする重圧との日常的な闘いと緊張の中に身を置いて3年間を過ごさなければならないのである。

 (2)受験拒否
 こうして本名で高校3年間を過ごし、先輩の在日朝鮮人生徒が本名で就職していったことにも励まされながら、Cもまた本名で就職していくことを不安の中で決意していく。ところが、これに対して企業は朝鮮人差別で応えてきた。
 昭和50年のオイルショック以降、求人数の減少と労働行政の後退によって、企業側の横暴と就職差別が再びあからさまになってきていたのである。そのため、私達が就職保障の取り組みを強化する方針を打ち出して動き始めた矢先のことであった。
 「在日朝鮮人生徒が本名で受験を希望している。社会への出発にあたって、企業としても本人を励ますかたちで受け入れて欲しい」
 この学校側の要請に対して、企業は「在日朝鮮人に対する受験拒否」で応えてきた。すぐに企業へ出向いて真意を問いただした。企業側の返事は次の通りであった。
 「当初市芦に1名の求人をしただけであったが、縁故関係が2、3件とH高校から1件の応募がある予定。朝鮮人の採用はむずかしいので辞退して欲しい。形だけ受けさせて不合格にすることもできるが、それでは本人に気の毒なので、辞退して他の企業を捜して受験して欲しい」「縁故、一般の日本人、朝鮮人と並べると縁故の方から採用することになる」「朝鮮人に対する差別・偏見ととられても仕方がない。日本人の生徒なら市芦から受験してもらっても構わない」「朝鮮人については辞退してもらう方針を神戸工場の方針として決めたので、今更変更も不可能である。受験の申し込みも受け付けない」「学校から採用業務に対して文句を言われるのはおかしい。どんな選考をしようとも会社の権利である」
 企業の差別体質が露骨に表明されていた。私達は、怒りを押し殺して、正確に話を聞き取っていかねばならなかった。直ちに、聞き取った内容を市芦の管轄職業安定所(以下「職安」という)である西宮職安に報告して、差別企業の指導に取り組むように強く要請した。そして、企業の管轄職安である灘職安にも足を運び、その後再三にわたって西宮職安・灘職安・企業を訪れての話合いが続けられた。
 その中で、次のようなことを職安に要請し、確認した。
1、在日朝鮮人生徒への受験拒否であり、門戸開放を指導すること。
2、門戸開放だけでなく、在日朝鮮人生徒に対する正しい評価ができるように 指導すること。
3、在日朝鮮人生徒の受け入れに適した企業体質への改善を図るように指導す ること。
4、応対者だけでなく、企業全体の責任として取り組むこと。
 職安への要請と並行して、私達は企業との直接の話合いにも全力をあげた。企業側からの謝罪と、「ぜひ受験させて欲しい」との要請に対して、「受験させて不合格にすることもできる」との発言があった以上、在日朝鮮人生徒に対する十分な理解が得られた上でなければ受験させることは出来ないとの立場で、企業との話合いに臨んだ。
 「在日朝鮮人生徒を門前払いにしたことに対して、どれほどの痛覚を持っているのか」「在日朝鮮人やその親がどれほどの苦境の中を生き抜いているのか、と言うことに対して正しい認識を獲得することでしか、採用選考において、在日朝鮮人生徒に対する正しい評価はできないのではないのか」ということを企業に問いただしていった。その時、担任が3年間のCとの付き合いの中でつかんできたCやCの親の生きてきた姿を企業に向けて話していくことが、企業を分からせていく唯一の手がかりとなった。その内容こそが、生徒を企業に送り出していくときに、私達が統一用紙「兵庫県版」に文章で書き込んでいった内容でもある。それが、唯一企業の就職差別と闘う手がかりだった。
 話合いは継続していたが、採用試験の期日が目の前に迫っていた。Cにとってもこれ以上宙づりの状態を続けるわけにはいかない、との判断のもとに、継続して職安が指導を続けるという条件で受験に踏み切っていった。他の就職差別事件で多くみられたように、学科試験や面接試験を隠れ蓑のにしてCを不合格にしてくるのではないか、「受験させて不合格にすることもできる」と企業がいっていたが、その通りにするのではないか、という不安の中でCは受験していった。しかし、話合いの中で受け取った企業の反省文の内容の真偽は、受験結果の内容で判断するほかないのではないか、と腹を決めての受験であった。
 企業が、統一用紙「兵庫県版」に書き込まれた生徒の評価を、学校から出された選考資料として採用していったとき、生徒の本当の学力が何であるのか、企業は真剣に考えなければならなかった。そのうえではじめて、Cの採用が実現していった。
 (3)闘いの中で引き出された生徒の力
 この就職差別事件と就職差別反対闘争は、私達教師にも生徒の本当の力とは何か、生徒の本当の「学力」とは何か、を考えさせるものであった。
 こうした一連の就職差別反対の闘いも、Cの決断があって初めて闘い得たのである。就職差別事件は闘われることもなく、闇に葬られることの方が圧倒的に多いのである。こうしたCの決断を支えたものは、親も含めて兄弟の全てがことごとく就職差別に出会ってきたという事実である。
 Cの兄は工業高校を卒業して就職するに当たり、就職試験において優秀な成績をおさめながら、朝鮮人であるという理由で不合格となっている。Cの兄の学校のしたことは次の会社の求人票を兄に渡したことだけだった。兄は、悔しさのあまり、その求人票をくしゃくしゃに丸めて芦屋川に流したという。
 また、Cの姉は就職試験の前日に、本名での受験を拒否されている。姉は本名での受験を貫き、その企業に入社していき、現在も元気に働き続けている。
 Cの闘いを支えていたものは、この兄や姉のありようだったのである。Cは自分が就職差別に直面したときのことを、次のようにいっている。
 「やっぱりきたかと思った。何らかの形で差別は受けるやろと思とった。でも、だからといって他の会社を受けても同じことや。ここで頑張るしかないと思った」
 そうして闘いに入っていった。気持ちの動揺を必死に押えながらの闘いだったのである。
 「先生は、『この子が動揺していなかったから闘えた』って言ってたけど、私は動揺していなかったわけじゃない。動揺するのが怖かった。朝鮮人ならこんなこと付きまとってくるんやと、はじめっから分かっていたことやから。でもやっぱりショックやった。やっぱり誰もが何のクレームも付けられんと就職したいと思っとうことやし、私なんか特にそう思とった」
 こうして、不安の中でそうするしか生きるすべのない一人の生徒の就職差別反対闘争・進路保障闘争は、1カ月半にわたって連日闘われた。
 逃げ道のない闘いの中で企業に入っていったCには、入社してからもその中で闘って生き延びていくしか、逃げ道などなかったといえる。そうした闘いの中で、彼女は見事に自分の力を引き出してきた。
 この項目を終えるにあたり、市芦の3年間の延長線上にあったCの就職差別反対闘争の、生徒の側からの総括と彼女のその後の苦闘を引用しておかなければならないと思う。「市芦つぶし」に抗して昭和61年10月20日に芦屋市役所前で開かれた「3人の先生を守れ、反弾圧抗議集会」において約500人の集会参加者の前でCが話した発言の内容を紹介しておく。
 ***市芦19回生の鄭幸子(チョン・ヘンジャ)です。私は朝鮮人です‥‥‥。と、このような大勢の人々の前で、こんなに堂々と、こんなに大きな声で言えるようになったのは、市芦に入学し、鈴木先生のもとで一緒に頑張ってきたからなんです。いままで私は、自分が朝鮮人だということを恥ずかしく思ってずっと隠してきました。でも市芦に入学し鈴木先生に出会い、朝鮮人というのがどんなにすばらしいかを教えられ、私は市芦を卒業してきました。
 私が就職を希望した会社で、朝鮮人は取らないと強く言ってきた会社に、鈴木先生は何度も何度も足を運び、間違った朝鮮人認識を徹底的にただし、その結果、2度3度と謝罪文を書かせました。
 はっきり言って、そこまでして、その会社に私が一人で働いていくというのは、不安で、とても怖かったです。でもそこまでしたんだから、そこまでやってきたんだから、よし、やってやろう、朝鮮人取って本当によかったって思わせたいって、勇気がわきました。
 同期で入社した日本人の子は、あっさり1年で会社をやめました。急に「やめます」といい、次の日から来なくなりました。入社して4年がすぎ、その4年間にはやはり、はかりしれない悔しさや悲しみがありました。でも決して弱音は吐かないぞと自分に言い聞かせながら、今では得意先からの指名が一番多く、「鄭さんお願いします」「鄭さんがおらんかったら、やっぱりあかんわ。いつまでもやめんといてね」などと言われるようになり、社内からも信頼されるようになりました。私は本当に強くなったと思います。私をそうさせたのは、市芦に入学し、鈴木先生に出会い、市芦で力をつけてきたからです。市芦は、他の学校に比べて学力は低いかも知れません。でも、人間的に、こんな素晴らしい高校はないと思います。
 いつの日か、それは15年先か20年先になるかもわからないけれども、私の子供にも、やはり市芦に入学させたいと考えています。そしてもし出来れば、鈴木先生のもとで学ばせてやりたいと考えています。
 でも、今の市芦がつぶれてしまえば、そしてもし鈴木先生がいなくなってしまえば、その必要はなくなるわけです。こんな素晴らしい高校は、本当にないと思います。そして鈴木先生みたいな、こんな素晴らしい先生も本当に少ないと思います。
 どうか市芦を潰さないでください。
 どうか鈴木先生を1日でも早く市芦に戻してください。市芦には鈴木先生が必要です。そして、鈴木先生にも市芦が必要です。***
 Cの闘いは、今も終わっていないのである。

(四)進路保障運動の流れの中の市芦の取り組み
 (1)統一用紙「兵庫県版」の制定
 進路保障運動は、就職差別反対闘争を軸にして展開されてきたといえる。被差別部落出身者への就職差別が頻発していたにもかかわらず、長い間そのほとんどが事件として明るみに出されることもなく、ましてや就職差別反対闘争として展開されることは至難のことであった。しかし、部落解放同盟を中心とする部落差別撤廃・部落解放の運動の高まりの中で、昭和40年に同和対策審議会答申が出され、昭和44年には同和対策特別措置法が制定されるに至った。この間、昭和43年には、労働省によって「同和地区新規学卒者に対する職業紹介要領」が出され、「就職差別撤廃のための求人者指導の強化」方針が打ち出された。その中で、「採用、選考に当たっては、合理的な基準による採用選考が行われるよう求人事務所に対し・・・その採用を積極的に勧奨するものとする」と各府県労働部あてに指示通達している。こうした行政的枠組みができあがることにより、それまで少数の学校で細々と闘い続けられていた進路保障運動は、飛躍的に前進し、広がりを持つようになった。
 就職差別反対闘争が正面きって闘われるようになるとともに、昭和45年には近畿進路指導連絡協議会が、本籍、親や家族の職業・収入欄、家の畳数を記入する欄、紹介者・縁故者欄、家族の病歴欄など差別的質問事項を排除して作成した「近畿高等学校統一用紙」(以下「統一用紙」という)を制定し、差別的「社用紙」の廃止に向けて取り組みが始まった。そして、昭和46年、昭和47年には、兵庫県高等学校教職員組合(以下「兵高教組」という)は指示7号によってその様式の差別性すら指摘し、兵庫県においては昭和48年の統一用紙「兵庫県版」と呼ばれる「兵庫県進路保障協議会所定用紙」の制定に向かうのである。兵庫県進路保障協議会とは、兵庫県労働部・兵庫県教育委員会などの行政代表、兵庫県雇用対策協議会連合会・兵庫県商工会議所連合会などの雇用者代表、総評兵庫県地方評議会・兵庫県教職員組合・兵庫県高等学校教職員組合など労働者代表、校長会など教育界の代表、部落解放同盟兵庫県連合会・兵庫県同和教育協議会など関係諸団体によって構成されていた。
 統一用紙「兵庫県版」においては、「行動および性格」欄が項目別評価から文章表記による「行動の記録所見」欄へと改善され、成績欄にも文章表記による所見欄が設けられるなど、改善されている。また、統一用紙「兵庫県版」の使用に際しては、断片的な点数評価に偏ることなく、生徒の学習活動全体を通して生徒を総合的に評価していくために、成績欄は「成績不記入」とし、修得単位数のみ記入する一方、「学習成績所見」を文章で記入するとともに、「行動の記録所見」欄ともあわせて「総合評価」を求める取り組みを進めた。こうした取り組みにより、兵庫県下の進路保障運動は高揚し、全国的な注目を集めるようになった。さらに、統一用紙「兵庫県版」の使用に際しては、兵庫県労働部や兵庫県進路保障協議会が統一用紙の趣意書を作成して、企業に就職差別の撤廃と被差別下におかれてきた生徒への進路保障を訴えた。

 (2)進路保障運動の発展の中での市芦の取り組み
 こうした流れの中で統一用紙の使用の取り組みが進められているにもかかわらず、昭和47年度末、市芦の生徒に対してY製油株式会社が「社用紙」を使用した。この問題をめぐって部落解放同盟による糾弾会が芦屋で行われた。市芦の教師たちはその糾弾会を通して、「社用紙」の差別性と被差別部落の人々の就職への飢餓感を思い知らされていくことになった。
 その翌年の昭和48年度に前述の統一用紙「兵庫県版」が制定され、市芦でも職員会議で繰り返し論議の上、統一用紙「兵庫県版」の採用と成績の不記入に踏み切っていった。すでに市芦は、生徒の学期毎の学習評価形式を従来の点数式の通知表から、「点検表」という文章表記によるものへと改善していたということもあって、このような統一用紙「兵庫県版」への移行は円滑に行われたといえる。
 昭和48年統一用紙「兵庫県版」採用の年、一般企業にはすでに職安からの指導を通じて、統一用紙「兵庫県版」の使用はほぼ了解されていたが、公共企業体は依然として従来の旧応募用紙を存続させていた。私達は、企業に統一用紙「兵庫県版」の趣旨説明を徹底させる取り組みを進める一方で、芦屋市役所に対して採用選考の改善を強力に要請した。私企業に率先して採用選考の改善を図らなければならないはずの、国・地方公共団体や公共企業体の改善の取り組みが最も遅れていたからである。芦屋市は、一次の学科試験の合格者にしか二次の面接試験を受けさせていなかった。それによって、生徒たちは、被差別下で作り上げられてきた「低学力」の克服に努力してきたことも、また彼らの労働意欲や労働力も正確に評価されないままに、一次試験で切り捨てられるという構造になっていた。私達は生徒が総合的に評価されずに不合格になっていく試験のあり方に反対した。そして、統一用紙「兵庫県版」を選考資料として採用し、全員に一次二次試験を受けさせた上で、総合的な見地から採用選考することを芦屋市に要請し、約束させた。その結果、それまで学科試験によって切り捨てられていた生徒が芦屋市役所に就職していくことが可能になり、そのほとんどが現在も元気に働いている。
 このようにして、昭和47年から始まった市芦の進路保障の取り組みは、ほとんど毎年のように就職差別事件と出会いながら、生徒の評価をめぐって企業と話合いを続け、生徒の進路保障を実現させてきた。
 さらに、昭和49年には進学保障で入学してきた身体障害者の進路保障も取り組まれた。この年3名の身体障害者が就職を希望していた。芦屋市役所に向かって進路保障闘争が組まれ、それが実現したのだ。彼らの就職にともない、障害者が自由に出入りできるように市役所分庁舎の玄関の階段・ドアは、スロープ・自動ドアに改修されるという条件整備も行われた。当時の芦屋市行政には、生徒を中心にすえた進路保障の取り組みを正当に受け止めていこうとする姿勢があった。


 (3)進路保障運動つぶしの中での市芦の取り組み
 しかし、昭和50年のオイルショック以降、進路保障運動は後退を余儀なくされた。オイルショックによる不況を理由として、企業は求人・採用の門戸を閉ざし、あるいは企業利益最優先の差別選考が露骨化してきた。それを援護するように、教育行政・労働行政の反動化が始まった。 昭和52年、企業の合理化が進む中で、それに併せて、兵庫県教育委員会は生徒に対する通・就学保障、進路保障という考え方を捨てて、生徒に対する差別・選別・管理強化の方針をあからさまにし始めた。同時に、兵庫県教育委員会は、通達によって統一用紙「兵庫県版」への「成績記入」を指示し、企業によって「成績不記入」の就職応募書類の受取拒否も行われた。これが、企業・行政一体化した露骨な進路保障運動つぶしの開始だった。こうして教育行政・労働行政の反動化が始まる中で、進路保障運動は後退を余儀なくされ、企業による被差別部落出身生徒や在日朝鮮人生徒への差別選考が露骨化してきたのである。
 こうした一連の進路保障運動に対する行政の反動化の中でも、市芦は、昭和50年には芦屋市の職員募集停止に対する門戸開放・進路保障の取り組みと、市教委による企業への求人要請を実現させた。
 また、昭和51年には市芦で初めての「知恵遅れ」障害者生徒の進路保障が取り組まれ、Nケーブルシステム株式会社への進路保障を実現させた。
 しかし、昭和52年の統一用紙「兵庫県版」への成績記入には最後まで抵抗したが、やむなく後退せざるを得なかった。生徒の生活実態・学力実態は深刻さを増していたときだけに、この進路保障運動の後退は手痛い打撃を与えた。求人数の減少と、企業利益最優先の差別選考によって、不合格者が激増した。卒業まで就職先が決まらない生徒も出てきた。
 そうした困難な状況の中で、昭和57年、前述した在日朝鮮人生徒への就職差別反対闘争は闘われたのである。
 さらに、昭和59年には、これまでの兵庫県下の進路保障運動を根こそぎにすべく、統一用紙「兵庫県版」が現場からの反対の声を無視して廃止され、進路保障運動への行政の反動化がますます進行していった。その中でも、市芦は、「新」統一用紙の中に統一用紙「兵庫県版」の趣旨を残していく取り組みを続けた。昭和59年、60年、61年と、市教委とも協議の上、「行動・性格欄の○印不記入、文章表記」の取り組みを最後の1校になるまで続けた。
 こうして、行政の反動化の中にあっても、被差別部落出身者への就職差別に反対する取り組みから発展した進路保障運動の遺産を守り続けてきたのであるが、それを嫌悪し、遺産を県行政に習って一掃しようとする市教委は、その運動を先頭にたって担ってきた教師を狙い撃ちにして、昭和61年度の2名の停職処分と7名の強制配転、昭和62年度の2名の強制配転によって、市芦の組合つぶしと教育つぶしを実行してきた。それによって、進路保障運動の遺産と共に、「生徒の進路の保障」という「考え方」そのものも消し去られようとしているのだ。