4、障害児教育の取り組み
(一)障害児の進路、市芦への受け入れ
(1)残り2.6%の中の障害児の進学保障
「全ての子に後期中等教育を」の精神に貫かれた市芦の進学保障制度を軸とする教育活動は、障害児の高校への入学をも射程にいれたものであった。昭和47年に車椅子に乗る身体障害者を進学保障で入学させて以降、障害児学校との交流などによって障害児やその親の教育要求に触れてきた私たちは、昭和49年の、中学校障害児学級在籍の「知恵遅れ」障害者の市芦への受け入れを実現させた。それまでは、中学校障害児学級在籍者の進路は在宅か、進学を希望する場合は遠方の養護学校しかないという状態であった。昭和47年1月、「今年もだめか、親の願い」との新聞報道を通じて、「手をつなぐ親の会」が地域の高校への切実な進学要求を持っていることを知った私たちは、中学校とも連携して市教委との交渉を行った。市教委は障害児は阪神養護学校へ行かせるという方針を持っていたため、障害児を地元の学校へ受け入れて欲しいという私達の申し入れは拒否された。しかし、親の強い希望もあって障害児は市芦を受験し、当時の市教委はそうした親の熱い気持ちを受け入れる柔軟さを持っていたので、合格発表の前日になって受け入れを認めた。その年「知恵遅れ」障害児1名と聴力障害児1名を受け入れた。
当時の芦屋市の高校進学率は97、4%に達しており、残り2、6%の中に見事に障害児が取り残されていた。中学校卒業を間近にひかえ「養護学校や職業訓練校へ子供と一緒に見学に行きましたが、もっと勉強したいという子供の表情を見て、この子の進路は地域の高校しかない」と腹をくくった親、そして、「ぼくは、やりたいことがたくさんある。絵をかくのがすきです。話によっては、本を読むのがすきです。ちえとちしきときをくりょくと自由がほしい」という障害児Fの高校入学への熱い思いを前にして、市芦の教師たちは、彼を、中学障害児学級を卒業した初めての「進学保障生」として迎え入れる決意を固めていった。
(2)障害生受け入れの前史
しかし、こうした「知恵遅れ」障害児の受け入れが可能になるためには、前史ともいうべき3年間にわたる市芦の取り組みが不可欠であったといえる。昭和46年に進学保障を実施して以降、生活破壊の中で教育権を奪われてきた生徒たちに教育権を保障していこうとする取り組みの中で、生活破壊を抱え持たずとも、さまざまな形で教育から阻害され、脱落していく生徒を学校につなぎ止め、彼らの教育権をも保障していこうとする取り組みが進められ、生徒を受験勉強へと駆り立てるだけの「教育活動」から脱皮して、血の通った教育を目指す取り組みが進められていた。そして、特に私たちにとっての大きな出来事は、生活破壊によって勉強が少し出来なかったというだけで障害児学級に隔離され教育権を剥奪されてきた進学保障生が、市芦の2年生になってから「わかる授業をして欲しい」と切実な声をあげ始め、それをきっかけに噴き上げた「わかる授業要求」に学校挙げて応えようとしてきたことである。この要求は、単に「わかる受験勉強」という意味を越えて、生きていく上で少しでも力になる授業、みんなの中で存在を認められて受けられる授業、そして「分かった」と実感の持てる授業という内容を含んだ非常に質の高い要求であった。それに必死で応えようとしてきた私たちの取り組みは、障害児を含む全ての生徒の要求に応えていこうとする教師の姿勢と、障害児が存在しうる環境の下地を知らず知らずのうちに準備することとなった。また、わかる授業要求の中心を担った部落研の活動に触発されて結成された障害者解放研究部(以下障害研という)の存在も大きかった。身体障害者によって障害研が結成され、その活動を通して教師も障害者と共に、「障害者がどう生きていくべきか」を考え始めていた。当時の障害研の卒業生は、「僕は、3年間、障害者がどう生きていけばいいのかを考え続けた。そして、僕は、市芦の中で障害者としての生き方を見つけた」と証言している。当時の市芦は、そのような雰囲気の中にあった。その雰囲気が、不安の中で私たちを、障害児の受け入れに踏み切らせていった。
(3)市芦に通った50名の障害生
「進学保障生として市芦に入学した。普通学級に籍をおいて、市芦での生活が始まった。中学の障害児学級では気楽だった。高校では気楽でなかった。市芦にきて3年間の人とつきあう勇気をつけたいという気持ちになった」
Fは、全国的にも例を見ない障害児の全日制普通高校への入学の緊張をこのように書き残している。当時から今日に至るまで全日制普通高校が「知恵遅れ」障害児を受け入れて、その教育に取り組んだ例は市芦以外には存在しない。そのため、他市・他府県からの親・教師の見学が頻繁に行われ、地域につながった障害児教育の発展に大きな影響を与えた。
こうして「知恵遅れ」障害児の受け入れが始まり、その後、ほとんど毎年、中学障害児学級在籍生徒を受け入れてきた。そうすることによって、市芦の坂を障害児が健常者に混じって登って来るのが日常の風景となってきた。以下、市芦に入学してきた障害児の一覧表を掲げる。
《障害者解放研究部に所属し、顧問の指導を受けてきたもの》
入学年度(員数) 性別 障害
昭和47年(3) 男 小児まひ
男 脳性まひ
女 下半身まひ(病名不明)
昭和49年(2) 男 知恵遅れ
男 難聴(補聴器も無効)
昭和50年(3) 男 知恵遅れ、てんかん、視力障害、発疹
男 知恵遅れ、虚弱児
男 自閉症
昭和52年(6) 男 知恵遅れ
男 知恵遅れ
男 知恵遅れ
女 脳性まひ、難聴
女 知恵遅れ
男 種痘後遺症による半身まひ
昭和53年(8) 男 低学力
男 知恵遅れ
男 低学力
男 知恵遅れ
女 低学力
女 低学力
女 低学力
女 知恵遅れ、身体まひ
昭和54年(3) 男 知恵遅れ
男 知恵遅れ、言語障害
男 ダウン症
昭和55年(6) 男 自閉症(情緒障害)
男 知恵遅れ、言語障害
男 知恵遅れ
女 知恵遅れ
女 自閉症
女 種痘後遺症による半身まひ、低学力
昭和56年(4) 男 ダウン症
男 知恵遅れ
女 情緒障害(分裂症の疑い)
女 知恵遅れ
昭和57年(4) 男 ダウン症
男 情緒障害(自閉症傾向)
女 知恵遅れ
女 難聴
昭和58年(5) 男 知恵遅れ(脳微細損傷)
男 知恵遅れ、身体まひ
男 自閉症
男 情緒障害
女 自閉症
昭和59年(3) 男 知恵遅れ、関節異常
男 知恵遅れ
男 知恵遅れ
昭和60年(2) 男 知恵遅れ、視野狭さく、関節異常
女 知恵遅れ、脳性まひ
昭和61年(5) 男 知恵遅れ
男 自閉症、情緒障害
男 知恵遅れ
男 難聴
女 知恵遅れ
昭和62年(2) 男 難聴
男 自閉症
(二)離反と出会い
(1)障害生の無視から排撃へ
障害児を全日制普通高校に受け入れ、健常児と日常的に一緒に生活をさせるということは、両者にとって大変なことだった。
市芦は定時制高校と並んで芦屋市の最底辺層の子供たちの受け皿となっていたため、市芦の学力保障・就学保障・進路保障の取り組みに期待をよせてやってくる生徒の他に、私立高校の受験に失敗して行き所のなくなった生徒たちがたくさんやってきた。行き所がなくなって仕方なくやってきた生徒たちの中には、市芦を「最低の学校」「行きたくない学校」としてしか受けと止められない生徒も多数いた。そのような、「市芦にしか来られなかった」という失望の中でやってきた生徒たちが教室に入ったとき、障害児がいた。その時のことを一人の生徒は、「俺は勉強でけへんかったから、市芦しか来られへんかったんや。入学式の日、教室にいったら障害児が一緒やった。俺らここまで落ちたんかとショックやった」と語っている。勉強も良くできて、一歩距離をおいて障害児を見ている優等生と違い、障害児と肌を接するようにして存在する市芦の生徒たちは、障害児が一緒に教室にいることで一層気持ちの落ち着きをなくしていった。
気持ちの落ち着きをなくした生徒たちも、最初は障害児を無視し、自分たちだけの世界を作ろうとした。しかし、時間が経過し、障害児と一緒にいる時間の量が累計として増えていくと、しだいに障害児の存在が無視し得なくなって、障害児に対する排撃が始まった。「全部別のクラスで授業を受ければいいんや」という声が出始めると同時に、障害児がからかわれたり、虐められることが多くなってきた。障害児の机はひとかたまりになり、他の生徒の机との距離が離れ、その机のまわりは掃除するものもなく、ゴミが吹きだまっていた。ホームルームで話合いも持ち、教師の側からの問題指摘がなかったわけではない。教師は生徒たちの「排撃」は阻止し得ても、障害児と他の生徒たちとの距離を縮めることは出来なかった。障害児と他の生徒たちとの離反は長い期間続いた。しかし、この長い離反の期間というものは、次の障害児と他の生徒たちとの本当の出会いを準備する期間としてなくてはならないものであった。
(2)長い出会いの準備期間
相互離反が続く中でも、障害児が他の生徒に取って無視できないものであり続ける以上、相互の出会いの端緒となるべき事柄が起こり始める。
ある日、心配した生徒が「また、Kをからかっている」と言いにきた。クラスの生徒が障害児にギター代わりに箒をもたせて、演奏のまねごとをやらせていた。教室ではいつも小さくなっていた障害児が初めて教壇で人前に立っていた。彼の芸はうまかったと評判だった。やらせた生徒が朝、顔を会わせると、ときたま挨拶の声を掛けるようになってきた。しかしそれも、「あいつは、俺らが声を掛けても無視してにらんでくる。俺らをなめとんと違うか」と、あいかわらず両者の距離は接近しかかっては遠のく。
バレーボールなどの行事があれば、障害児をいれてゲームをするためのルール改正が学校をあげて討議され、障害児をいれての特訓がクラスの生徒たちによって組織されることもあった。障害児がいても何とかゲームに勝ちたいという生徒の要求は、障害児がいることを負担に感じながらではあるが、確実に生徒を技術の向上のための努力へと向かわせた。練習量を増やし、障害児を熱心に教えた。しかし、練習の中で熱心に教えていた生徒が、ボールに対して自信のなさからあまりにも消極的な障害児を「しっかりボールを追いかけろ」と本気で怒り始めると、障害児は「私を虐める」と言って教師の元へ駆け込んで行った。教えていた生徒は、「なんやあの子は」と言って反発し、障害児への腹立たしさをぶちまけた。
こうして障害児とクラスの生徒が、近づこうとしては遠のくということが繰り返された。
障害児とクラスの生徒の出会いまでには、2年にも3年にもわたる長い醸造過程が必要だった。無視から排撃へと進んだ障害児とクラスの子との関係は、荒れた混沌の中で接近と離反を繰り返して行った。しかし、この混沌の中で出会いもまた作られて行った。
(3)障害生の市民権獲得
ある日、廊下を通りかかると生徒たちが小さなボールでサッカーゲームを楽しんでいた。その中に、障害児Kの笑顔で声を出しながらクラスの子とボールを取り合っている姿があった。一緒に遊んでいるのはつい一週間ほど前にKを殴って、ホームルームで問題になった生徒だった。そのホームルームの中で、Kを殴ったのは、実は障害児と最も近い距離にあって挨拶を交わしたり、サッカーを教えたりしていた生徒たちだったことが分かってきた。日常的な接触の中で生まれた障害児に対する全く対等な要求が満たされないことに対する不満と苛立ちがこの事件を引き起こしていた。障害児Kは、挨拶されてもうまく挨拶が返せないからじっと顔を見ているしかなかったこと、サッカーでボールを回してもらって蹴れといわれてもどちらへ蹴っていいのか分からなかったのでじっと立っているしかなかったこと、本当は誰とでも話がしたいと思うがみんなの前に行くと思うように話が出来ないことなどをクラスの生徒に向かって一生懸命話していった。それまで一度としてまともに成立したことのなかったホームルームが、放課後であるにもかかわらず、全員が残って成立していた。母乳を飲まず死に直面していた子供を母親は抱き続け、父親は雪の中を、はいていた靴も脱げて裸足になりながら薬を取りに山道を走ってKの命は守られたのに、みんながどうしてその命を粗末に出来るのかということもその場で語られていった。このホームルームは排撃に耐えながらクラスに居続けたKが組織したものだった。どんな排撃にあってもクラスの生徒の中に身を置き続けることによって、一つの事件を契機にして障害児Kはクラスの中に市民権を獲得して行った。
障害児がクラスの中に市民権を獲得していくと同時に、入学当初障害児に最も排撃的であった生徒が、障害児がみんなの中に入ってこられるようになったことを、「クラスにまとまりが出来たこと」の証として総括をしている。その生徒もまた、勉強が出来ないことを馬鹿にされ、身の置き所に苦しんだ生徒であった。彼の総括は、障害児も自分も含めて、それぞれの生徒があるがままにその存在を認め合うクラスができあがったことを証言している。そういう変化の中で、それまでゴミの吹きだまっていた障害児の机の回りはいつの間にかきれいに掃除されるようになっていた。
(4)学校教育の中での障害生の存在の意味
とり立てて何かが出来たということではないが、しかし、長時間かけてやっと、障害児がごく当り前にクラスの中に、あるいは学校の中に存在しうる関係ができあがっていき、障害児の存在は周囲の生徒の人としての成長を助ける上でも大きな意味があるのだということだけはいえる。障害児との付き合いを通して他の生徒の人間性が見えてきたり、点検されたりしたし、どうしようもないと思われていた子の思いがけない優しさが障害児を通して発見されたりした。また、何よりも障害児は生きることの一生懸命さにおいてどの生徒よりも優れており、障害児を通して「強く生きること」を生徒たちは学んでいった。
社会の差別性・排他性を反映した生徒の排他的なゆがんだ「人権」に対する感覚は障害児との付き合いを通して、点検されていくことにもなった。それは、クラスがどんな状況であれ、学校がどんな状況であれ、障害児がそこにあり続けることでしか起こり得なかったことなのだ。障害児と健常児が日常的に喜怒哀楽を共にしながら、肌を接して生きる場所を市芦の中に保障するということは、両者にとって意味のあることだった。
障害児が学校の中に存在し続けることで、さまざまな出会いもまた起こる。
車椅子で入学してきた障害児が、車椅子から手すりを伝っての歩行へ、そしてバケツを両手に下げての懸命の歩行訓練を経て、3年生最後の体育祭でクラス全員リレーに初めて出場し、全員の注目の中をトラック半周自力で走りきった。感動した権太な被差別部落出身生徒が、待機の列から飛び出して、彼女を励ましながら伴走するという場面にも出会ってきた。
あるいは、脳性小児まひの後遺症を持つ障害児Hが毎日きつい坂を顔を真っ赤にして、不自由な足を一つ一つ折りたたむようにして歩いて登校している姿に、バスの車窓から気づいた生徒Gが、その障害児に励まされて、自分の就職差別と闘いきって行くという出会い方もあった。
障害児Hは、足を訓練するため、足の痛みを押して社宅の回りの道路を、人気のなくなった夜に母親が付き添って毎日走った。つまずいて倒れることもしばしばで、膝には生傷が絶えなかった。そうした訓練の上での徒歩通学だった。 未熟児として生まれたGも、少し足が悪かった。そのため、「ちんば」「びっこ」「人間違う」といわれ、人の前を歩くのが恐かったという。夜痛む足を母親にさすらせながら、「何でこんな私を生んだんや」とGは母親に当り散らしていたという。そのGが、就職試験の面接おいて、足の不自由なことを理由にして不合格にされた。学校からの抗議に対して、「何しろ受付という仕事は会社の顔であり、来客者の印象を悪くしては困ります」と言った会社に、Gは入社して、受付に座り続けた。障害児を含む懸命に生きようとする生徒たちの触れ合いが、生徒たちの中に新しい価値観を育て、生徒たちをたくましく育てていったことをGは次のように証言している。これは、Gが、就職試験の後の大学二部の学科試験で作文題「希望」の中で書いたものだ。
『私は将来障害を持った子供たちのいる施設で保母として働くことを希望しています。私の学校は普通高校ですが、障害を持った子も一緒に学んでいます。その中で気づいたことがたくさんあります。障害を持っているから何もできないとか、手がかかるとか世間の人から差別的にみられますが、そんなことはありません。何より、私たちより一生懸命であり、そのことで私たちにない輝きがあります。(中略)私は今、障害を持った子供も普通の子供たちと同じように学校にいくべきだと思っています。施設という中だけでは、考え方や教育が偏ってしまうような気がします。私たちの考えや教育も歪みを持つように思います。私は障害を持った子と一緒にいることで、障害者のイメージが変わってきました。私より良いものをたくさん持っている学校の友達をたくさん見てきたからです。何よりも人が生きていくことの強さを教えられました。(後略)』
(5)障害生と市芦の風土
市芦では、こうした先輩の卒業生たちが残していった遺産が積み重なって、教師の中にも生徒の中にも「風土」として残っている。この「風土」が障害児をはじめとして、しんどい生活を抱えた生徒たちをはぐくみ育て、さまざまな生徒がぶつかり合い、擦れあい、支え合って共存できるようなところまで約15年間かけてやっとたどり着いていた。そのような中で、中学校時代を長欠で過ごした障害児Kが、市芦では皆勤で過ごすというようなことが起こり始めていた。
「市芦には、弱いものをいたわり育てる風土がある。神経症になって登校拒否していた息子が市芦では1年間を皆勤で過ごしました。日本中に誇るべき学校だ」と、障害児Kの父親はいった。母親は、「市芦はみてくれは悪いけど、優しさのある学校」という。
今では、障害児と他の生徒が短期間で共存できる関係を作り上げるようになってきた。在校生は、次のように証言している。
「私らは、障害児がいるから迷惑だと思ったことは一度もない。市芦では、障害児が一緒にいるのが私らにとっては当り前になっている。それが、中学までと違うところです。だから、街で障害者と会っても不自然さを全く感じません。障害者がいると、声を掛けたり、手を貸そうという気持ちに自然になれます」 「結局、市芦にいない人にはどんなに説明しても分からないと思う。何も分からない人が外から干渉するのは辞めて欲しい」
人が成長するということとか、教育とかというものを全く理解しない人たちによって進められている「松本教育改革」が、市芦の「風土」を壊し始めた途端に、障害児Kの様子がおかしくなり始めた。点数によってしか生徒の評価をしない「教育改革」は、障害児を含むさまざまな生徒のさまざまな有り様を認めようとせず、市教委の定めた規格から外れる生徒には徹底して攻撃を加え排除する。さまざまに違った人間の存在こそが豊かな集団を作り上げるのだというごく初歩的な教育観すら市教委は持ち合わせていない。
障害児が私たちに教えてくれるものはたくさんある。障害児と私たちの相互学習こそが、「障害児との出会い」に他ならないのだ。
(三)障害児の受け入れに伴う学校の課題と要求闘争
(1)障害生の存在を保障するための取り組み
「受け入れて責任が持てるのか」「障害児に対してどんな授業が出来るのか」「事故が起こったらどうするのか」障害児の受け入れに伴い、毎年様々な不安が出し合わされた。それでも、最後は障害児とともに試行錯誤を繰り返しながらやっていこうということで、受け入れが決っていった。
そんな中で、「この子が水泳中や登山の途中に発作を起こして命を失うことになっても市芦へ行かせてみんなと一緒のことをさせてやりたい」と両親が願っていた、強度のてんかんの発作をもっていた障害児Sが、この子の命が卒業まで持つだろうかという不安のなかで入学してきてきた。Sは二年生の秋まで無事に過ごしてきたが、突然網膜剥離に襲われた。そのSが、網膜剥離の手術で入院することになった。毎日服用している薬の副作用で体中に発疹ができており、かゆみのためSはいつも着ている服が血だらけになるほど体中をかきむしっていた。だから、手術後の目をSがかきむしらないように、両親は一日中Sの手を押さえていなければならなかった。昼夜通して、両親だけでSの手を押さえつけておくことはとうてい不可能なことだった。あわせて、てんかんによる引き付け発作の危険のあるSの伏臥静養には24時間介護が長期にわたり必要だった。私たちは学校あげてローテーションを組んで泊り込み体制を敷き、昼夜Sに付き添っていた両親を援助するため昼は一名、夜は二人ずつ教師が尼崎の病院に泊り込んでSの介護をした。徹夜のあとも、そのまま学校へ出てきて授業をするという日がSの入院期間中の四カ月間にわたって続き、延べ八十名の教師が介護に参加した。
手術後片方の目はほとんど失明し、もう一方の目も視力が極度に低下していたため、教科書やプリントに顔をすりつけるようにしても字が全く読めなかった。教師は毎時間、ほかの生徒に配るプリント類を約3cm四方の大きさの升目の原稿用紙に全部書き直したS用のプリントをつくって授業に持っていった。現在のように拡大コピーのない時代であったから、それは大変な作業だった。
Sは卒業後失明しているが、元気に生き続けている。昨年の文化祭には、障害生OBあげてルナホールを訪れ、その中にSも元気な姿を見せ、障害研や市芦の今後を心配していた。彼が生き続けていくには、両親の支えと本人の格闘を何よりも必要としたが、彼の在学した市芦という学校の存在も大きなものだった。
あるいは、市芦卒業後、初めて父と子が一緒に生活を始めようとするとき、その子の卒業後も市芦の教師は彼らのそばに付き添って生活し障害児の生活指導に当たらなければならないこともあった。男一人で生活していた父親は建設現場での下働きの仕事を済ませて、台所つき一間のアパートへ帰って来ると店屋物で食事を済ませるという生活をしていたため、市芦卒業後施設を出されるMが食事や通勤など父子二人きりの生活には大きな不安があったからだ。M親子のアパートの階下に部屋を借り、元担任と他に2、3人の教師が協力して約一年がかりでMの卒業後の生活指導が進められた。
ひとりの障害児を受け入れるということは、その子を中心にして学校のカリキュラム以外の教師の仕事が激増するということでもあった。
(2)障害生の学校生活の保障
こうした思いがけない仕事量の増加以外に、学校が障害児の教育権保障のために計画的に取り組まなければならなかった課題があった。それは、授業の保障と、障害研活動の保障だった。
授業においては、障害児を一斉授業からとりだして、彼らの力を引き出していくのに最も適切と考えられる教材による「取り出し授業」が計画された。並行して、体育、理科、芸術等では一斉授業に障害児を入れて、出来る限り健常者との共同学習を追究しようとする試みも積極的に行われた。一斉授業では教師を複数配置して障害児の学習指導にとどまらず、周囲の生徒との交流の促進にも配慮してきた。
「取り出し授業」「一斉複数教科担任制」に伴う大幅な教師の持ち時間増のため教員の加配なくしてはカリキュラムの実行が不可能な状況になってきた。併せて、持ち時間の問題だけではなく、取り出し授業においても、一斉授業においても、その授業を成立させるためには教材の自主編成が不可欠だった。自主教材の開発のために教師は膨大な時間とエネルギーを必要とした。教材の自主編成が始まると、多くの教師が夜の八時、九時まで学校に残って教材研究を続け、時には学校へ泊り込むときも希ではなかった。
こうして、障害児の授業保障のための取り組みが続けられる一方で、彼らが学校を続けられ、授業を続けられるように、彼らを励まし元気づけられる場所と活動が必要だった。それが、障害生教室と障害研活動であった。市教委は障害児の受け入れにともなって、市芦からの要求に応えて障害児の取り出し授業や活動の場所として教室を増設した。そこに障害児が集まり顧問の指導のもとで障害研として以下に述べるようなさまざまな活動をした。障害生教室で、障害児たちは緊張から解放されエネルギーを蓄えては親学級へ戻り、そこでの緊張に疲れては障害生教室へ戻るという往復運動の中でつぶれることもなく鍛えられていった。
障害児の力をあらゆる面から引出していこうとする試みは、以下のような年間計画として定着してきた。
春休み 入学予定の新しい障害研のメンバーの歓迎ハイキング
4月 入学式、障害研が集まって自己紹介
5月 中間テスト中、飯ごう炊さん
6月前半 放課後バレーボール練習、3年、県能力開発研究所で の実習
夏休み はじめの一週間、水泳訓練
8月初め、障害研合宿(海の民宿)
3年、職場実習
8月終わりごろ、障害研キャンプ
10月 中間テスト中、飯ごう炊さん
10月後半 文化祭公演に向けての練習
→11月後半 文化祭障害研公演
2月 卒業合宿をかねた障害研スキー合宿
2月25日 卒業式、障害研お別れ会
通年 2年・3年は、週1回授業時間を使い、つつじ作業所 で訓練実習をする
(注1)県能力開発研究所:1・2週間かけて、宿泊して、仕事でどの ようなことが出来るかを検査する。職安とタイアップした作業能 力検査をする。
(注2)つつじ作業所:福祉課の援助で設立され、芦屋市の援助金を使 って、市と障害児の親が協力して運営している障害児の授産施設。
一つ一つの行事を消化して行くための準備に費やされるエネルギーは莫大なものだった。それに加えて、障害児が多くの時間を過ごす障害研での障害児の世話活動にも多大なエネルギーを必要とした。用便の世話、昼食時のお茶の用意と食事指導、生徒や父母との毎日の日記交流、障害児が飼っているウサギやニワトリの世話、体育の授業のための着替え指導と授業への参加指導、ときどき行方不明になる生徒の捜索、生徒同士のトラブルの仲裁と事後指導など。障害児の日常生活の隅ずみにいたるまでの指導に追われて、障害研顧問は一日中休む暇がない。
(3)障害生の教育権保障のための条件整備
障害児の受け入れにともなって、教師の労働負担は極端に大きくなってきた。高校のカリキュラムの消化のための教育労働にはこれまで含まれていなかった労働が新たにつけ加わってきた。これらの全ての労働をやりきることが障害児の教育権保障の前提でもあったから、そのための条件整備の要求は生徒にとっても教師にとっても切実なものであった。従って、加配教員の要求、障害生教室をはじめとする施設、設備の要求は学校あげて強い要求として市教委へ提出された。
昭和49年、初めての「知恵遅れ」障害児と聴力障害児の受け入れに伴い、二名の加配教員の要求(以下「加配要求」という)が行われ、「わかる授業」の創造に伴う加配要求とも重なって、この年、実に九名の加配が実現した。
翌昭和50年には、市教委は障害児取り出し授業を二コース設置して、15クラス17コース制を採用した。また市芦からの要求に応えて、障害生教室と障害生学習室が完工された。
昭和54年には、加配削減が転出後の欠員不補充というかたちで進行する中で、市教委は15クラス21コース(障害児コース各学年2コース)を採用して障害児教育の条件整備を確保した。
しかしながら、これらの条件整備は障害児のためのコース増設および複数教科担任制による単純な教師の持ち時間数の増加だけに対応したものにすぎず、その他の労働負担や労働密度の増加には一切考慮が払われていない。「教師が増えても仕事はしんどくなった」という状態が当時から現在まで続いている。
(四)障害児の進路保障
(1)学校・職場実習・就職
障害児は市芦の中で健常者との緊張した生活を通して少しずつ鍛えられ、3年がかりで社会へ出ていく準備を整えていく。1、2年生の準備期間の後、3年生になると、6月の兵庫県能力開発研究所での実習訓練と能力測定の後、夏休みに職場実習をさせてもらえる企業を職安の協力を得て捜しまわらなければならない。職場実習から就職へと順調に運ぶときも希にはあったが、たいていの場合は「就職を前提としないのなら、職場実習を引き受けます」というものだった。夏休み中、学年・障害研の教師が交代で付き添って、一緒に汗を流しながら職場実習は続けられた。
職場実習をする中で、仕事にもなれ、仕事を十分こなせるようになるにつれて、生徒は「ここで働きたい」という気持ちが強まり、周囲の労働者にも認められて、「卒業したら絶対おいでね」と励まされて実習を終わることもあったが、その生徒は二度とその職場には戻れなかった。その職場への就職を断わられたとき、母と子で泣いたという。
3年間かけて準備された障害児の進路保障のための取り組みも、容易に実を結ばなかった。学校と職安が走り回っても、卒業しても就職先が決まっていないということも希ではなかった。やっと就職先が決まっても、多くの場合、身体障害者雇用促進法の趣旨にそって最高1年間の職場適応訓練手当の適用を受けての採用だった。そのため、その適用が切れると賃金は月額4、5万円と健常者の半額以下に一挙に落ち込んでしまうという労働条件の下での雇用だった。また、労働条件の劣悪さ、人間関係のむずかしさなどから退職する場合も多く、障害児の就職指導、生活指導に奔走しなければならなかった。昭和56年3月兵庫県労働部職業安定課発行の「心身障害者雇用事例集」の中で、職業安定課長は、「申すまでもなく、心身障害者の雇用の促進を図るためには、行政機関が強力に対策を進めていくことが必要なことは当然ですが、全ての国民、とりわけ事業主の皆様が、社会連帯の理念に基づき、積極的に雇用に取り組んでいただくことが不可欠であります」と書いている。にもかかわらず、障害児の進路保障は困難を極めた。
(2)高校へ行きたい、働きたい
最近では、進路保障運動の衰退、不況を理由とした合理化、労働行政の後退によって、こうした劣悪な条件ですら民間企業への就職はほとんど不可能になってきた。今では、職場実習の機会を与えてくれる企業すらなくなった。
民間企業への就職保障の取り組みと並行して、積極的に障害児の雇用対策に取り組もうとしなかった公共企業体への進路保障も取り組まれた。
昭和50年、初めての身体障害者の卒業に際して、芦屋市役所への3名の就職保障が取り組まれ、実現した。彼らの就職にあわせて、芦屋市は、玄関の階段をスロープに変え、ドアを自動ドアに変えて条件整備を行っていった。
昭和53年、56年には、知恵遅れ障害児の芦屋市役所への就職保障が取り組まれ、芦屋市との個人委託契約による就職保障が実現した。
以下に障害研所属生徒の進路一覧表を掲げる。
卒業年度 性別 進路
昭和50年 男 芦屋市役所
男 同上
女 同上
昭和52年 男 民間企業(製造)
男 神戸中央郵便局(外勤)
昭和53年 男 民間企業(製造)
男 淡路ろう学校高等部→つつじ作業所 男 民間企業(製造)
女 民間企業(食品)
昭和55年 男 民間企業(製造)→(繊維)
男 民間企業(食品)
男 大学→民間企業(営業)
男 施設
女 民間企業(クリーニング)→(繊維)
→つつじ作業所→・・→民間企業
女 民間企業(製造)
昭和56年 男 民間企業(食品)
男 民間企業(養豚)
男 →芦屋市個人委託契約職員
男 民間企業(クリーニング)→(繊維)
女 民間企業(食品)→(食品)
女 民間企業(生協)→退職
女 民間企業(食品)→退職
女 民間企業(食品)
昭和57年 男 山崎町授産所
男 芦屋市個人委託契約職員
男 芦屋市個人委託契約職員
昭和58年 男 民間企業(事務)
男 施設
男 神戸市嘱託職員
女 民間企業(クリーニング)
女 民間企業(食品)→退職
女 民間企業(食品)
昭和59年 男 授産所(私立)
男 つつじ作業所
女 つつじ作業所
女 民間企業(食品)
昭和60年 男 芦屋市個人委託契約職員
男 大学
女 つつじ作業所
女 民間企業
昭和61年 男 民間企業(クリーニング)→退職
男 専門学校
男 つつじ作業所
男 つつじ作業所
女 専門学校
昭和62年 男 川西市立小戸作業所
男 つつじ作業所
男 つつじ作業所
この表でみられる通り、最近では新規卒業者および民間企業退職者が「つつじ作業所」へ流れ込み、市芦以外の障害児の入所と重なって、つつじ作業所は、飽和状態となっている。にもかかわらず、市内在住の障害児の就職保障のための対策は放置されたままになっている。今後一層学校としての障害児に対する進路保障の取り組みが必要なときに、市教委は、校長に指示して障害児教育の破壊と進路保障体制の破壊を強行してきた。障害児のための加配教員を全廃し、学年所属の教師および障害研顧問の教師約20人での総がかりの進路指導を、任命制校務分掌によってたった一人の就職担当による進路指導へと改悪したのがその典型である。これが「松本教育改革」の実態なのだ。
教育行政が市民の差別意識をあおりながら、障害児の市芦への進学保障を破壊しようとしているとき、その包囲攻撃網の中で市芦に通う障害児と通わせる親のしんどさは計り知れないものがある。さらに、障害児には、障害児学級から一般生徒の中へ投げ込まれることによる緊張としんどさが加わる。それは、「通学するのは心身がしんどい。特に心がしんどい」「人とつきあう勇気をつけたい」「クラスの人と話ができたことが一番うれしかった」という言葉になって表れてくる。
親も子も、しんどい。しかも、しんどい3年間の先の進路も閉ざされている。にもかかわらず、障害児とその親は市芦への進学を求め続けてきた。そして、私たち市芦の教員はその障害児とその親の要求に応えようとして、全力を挙げて障害児の教育権の保障と進路の保障に取り組んできたのである。