三、教職員組合の進めてきた教育活動とその役割

 芦屋市立高等学校教職員組合は、昭和41年に管理職を除く全員の加盟で結成された。学校創設後5年目にしての結成であった。
 それまでは、賃金・労働条件などが県立高校教職員や市職員に準じて決められており、それらの組合が闘って実現した改善・改定内容がほぼ自動的にスライドされるということが行われていた。
 しかし、組合の必要性が共通の認識となり、全員加盟の組合結成が進められた背景には自分達もまた教育労働者として共に闘うことで、身分の保障・賃金・労働条件などの改善、確保を進めたいという意思が高まってきたからである。それと併せて学校運営の民主化を進め、教育の自由を息づかせたい、民主教育を確立したいという願いがあった。
 事実、組合の結成を機として学校内組織とその運営に民主的改革が加えられ、教職員の自主性・創造性の範囲が拡大し、教育自治が機能し始めることになった。
 昭和42年に連合組織であった兵庫県高等学校教職員組合に加盟し、阪神支部市芦分会を確立した。
 さらに、市職員組合との共闘も発展させながら、身分の保障・賃金・労働条件などの改善、確保を進めていったが、市芦分会が生徒の教育権保障の闘いを本格化するのは、昭和45年の「育友会費問題」を取り上げた父母負担軽減闘争以降であった。
 特に、昭和46年に始まる「進学保障制度」の実施以来、生徒の教育権保障のための教育条件整備の闘いを一貫して闘うことになった。
 おもなもを列挙すれば次のようなものがある。
 まず第一に、昭和46年から始まる教員定数の増員(加配教員の配置)を求める闘いがあった。この闘いは昭和51年に至るまで続けられ、教員定数の増員(加配教員の配置)を実現させた。
 その結果、市教育委員会のいう「一人一人を生かす教育」を目指して複数教科担任制度や専任教諭制度(時間講師の撤廃)を生み出し、障害児の受け入れ体制を作り出す条件整備となっていった。
 その後、市教育行政の反動的転回により欠員不補充の名の下に教員の減員(加配教員の削減)が始まった昭和54年からも、教育条件の低下を生み出し生徒の切捨てをもたらす教員の減員(加配教員の削減)に反対し、減員を最小限に食い止める闘いを続けてきた。
 市教育委員会が「安上がりと切捨ての差別教育」を強行する上で最大の障害は組合の存在であり、組合への不当な弾圧はなによりもここに根拠を持つ。
 さらに、教員の増員と併せて組合が進めたことの中に、教職員の身分保障が上げられる。臨時職員を定数化すること(昭和49年、図書司書)や6ヶ月契約の助教諭を教諭として身分保障する闘いなどである。平等・対等な関係は教職員が個人としても集団としてもその意欲と力を十分に発揮し、教育上の成果を上げる上で不可欠なことであった。このことで市芦の教育活動に専念できる条件が整えられたといえる。
 昭和55年には、市教育委員会は3名の教員の意に反し、校務運営に及ぼす影響を一切考慮しない人事異動を行ったが、組合の抗議に対して、その非を認め一年後に市芦へ復帰させてた。
 教員の身分保障に対する改めての確認が学校管理職ともなされた。「人事異動において本人の希望に反する異動をしないこと」、「学年や教科に十分はかりながら進めること」などが約束された。
 第二に、生徒の就学保障に必要な奨学金制度の拡充のための取り組みや授業料の値上げに反対する闘いがあげられる。
 この闘いによって多数の生徒の就学条件を整えただけでなく、それを通して生徒の学習意欲を引き出し、教育権を保障してきた。
 受益者負担の原則という名で経済的弱者を教育から排除し、差別することに組合は正面から反対してきた。
 第三に、生徒の進路保障のための闘いがある。これは特に就職差別反対闘争として展開され、就職の機会均等等の実現の一助となっていった。
 第四に学校の教育自治を確保するための闘いがあった。教育行政が学校運営に不当な権力的介入をするのを阻止し、真に子供と親の信託に答える教育現場の創造への努力である。主任制度などの教職員の分断と上意下達の機関化に反対することで教職員の自主性と創意を守ろうとしてきた。
 市芦の組合は昭和45年以降今日に至るまで何よりも生徒と親の願いを実現することを目指す教育運動を一生懸命進めてきたといえる。