第三  芦屋市教育行政の転回と「市芦つぶし」

一、市教委の進めてきた「同和教育」

1、かつての「芦屋教育」の実態
(一)越境入学を誇っていた「芦屋教育」
 昭和37年、同和対策審議会が設置され、昭和40年8月、同審議会は答申を提出した。この答申を受けて昭和44年7月、同和対策特別措置法が制定された。同法第6条第6項に「対象地域の住民に対する学校教育及び社会教育の充実を図るため、進学の奨励、社会教育施設の整備などの措置を講ずること」とあるように、この法律は国及び地方公共団体の同和問題に対する責任と課題を明確にした。この間芦屋市行政においても昭和37年に同和事業推進協議会が設置され、昭和38年には上宮川会館が建設されている。
 しかし当時の芦屋市行政内部にも、また特に教育関係者間でも、「答申」の内容は勿論のこと、措置法についての認識さえきわめて不十分であり、被差別部落住民に対する差別には旧態依然足るものがあった。特に市教育委員会にあっては、学校教育の中において同和教育をどう位置づけ実践していくのかという視点は皆無であった。
 市教育委員会が作成する年度毎の教育方針と重点目標をまとめた「指導と助言の方針」に同和教育についての方針が示されるのは昭和43年がはじめてであり、その内容も「同和教育の振興、同和教育の理念の徹底」という抽象的な一行であり、具体的な実践課題となるものは何も示されていない。ましてや各学校現場において同和教育の視点から教育を捉え返すという実践は何一つなかったといってよい。
 芦屋市教委は昭和46年12月の五項目要求を受けてそれまでの教育と決別し、180度の展開を見せるのである。それ以前の芦屋の教育を象徴的に語るものとして越境通学者問題があり、その多くは成績優秀なものであったことから、当時の教育関係者及び行政担当者も「頂上線を行く」と矜持を高くしていたのである。この越境通学者問題については国会でも取り上げられ、越境通学者抑制の方針のもとで当時の教育事務担当者が毎朝国鉄・私鉄の駅に出張し、下車して来る越境者をとらえ退学勧告をしたり、寄付金を徴収することで抑制しようとしたりした。ちなみに金額は一人当りの校舎基準坪数建築費を標準に算出し、その三ヶ月分づつの前納方式をもってした。その結果一時1500名に達していた越境者は漸減したが、芦屋市内の学校へ他市から越境通学者が多かったことだけをもって「教育芦屋」を誇りとするというような風潮が存在していた。

(二)教育における部落差別の実態
 このような大量越境通学者が存在した裏で、芦屋市に住みながら、一切の公教育から排除され、教育権を保障されてこなかった者がいた。特に被差別部落出身の子弟に対する教育については、一片の顧慮だになかったのである。被差別部落の子弟の学力や進学状況が一般地区の子弟と比較して著しい差異を生じている事実が、教育制度そのものの中で教育差別を被っている結果であるという認識は、教育関係者において皆無であった。
 国民が等しく教育権を保障されていることは、憲法、教育基本法を待つまでもないことである。児童、生徒は学校教育の中での人間的諸能力の全面発達と教育の機会均等を保障されているはずであるにもかかわらず、被差別部落では教育の機会均等が長い部落差別の結果阻害され続けてきた。その結果親たちは経済力にも乏しく教育も満足に受けられず、そこからくる全体的な生活の低位性が、子弟の学力、進学、就職に再び差別的な状況を生み出しているのが現実であった。
 当時の被差別部落の教育実態をつぶさにみてみるならば、部落差別の存在は火を見るよりも明らかであった。昭和46年に芦屋市教育委員会の要請を受けて市内の教師がまとめた同和教育白書を見るならば、その教育実態は明らかである。白書は次のように証言している。  「教育の場における部落差別は、『取りこぼされる子ども』として、具体的には学力の低位性という形であらわれていると考えられる。芦屋市立精道・山手両中学校の学習成績の中にみられる部落差別の実態、学力の低位性は以下のような表に現れている。



 この調査結果を考察すれば、同和地区出身生徒の学習成績が一般地区の生徒に比べ、全ての教科にわたって、低位の段階におかれていることは明らかである。
 学習成績の低位性が生じてきた原因は、いうまでもなく現在、なお、差別と偏見の中におかれている同和地区の中で、幼児の頃から、知的な発達や学習向上を促す諸条件を奪われ、また、学校現場においては、知識偏重主義の中での学習成績による輪切りと選別によって、『こぼれ落ちる子ども』として切り捨てられてきた結果に他ならない。
 この事実こそ、二重、三重の部落差別の結果、作られてきたものであることは明白であり、いまなお、部落差別が厳然と存在するということの事実による告発である。
 さらに重大なことは、同和地区出身生徒の基本的な学習権が奪われているという事実である。学習成績にみられる基礎学力の遅れは同和地区出身生徒の学習に対する要求、学びたいという権利を阻む役割を果たしている。例えば、社会、理科などにみられる大きな成績の不振が国語的な基礎力(思考力、論理力など)、数学的な基礎力(推理力、計算能力など)の遅れによって大きく影響されていることは疑いない。このことは、学びたいと思っても、その内容を理解する以前の基礎的な学力の遅れが、大きな障害となって実際には学ぶことがはばまれてしまっているという結果になってしまっている。
 そして、何よりも重大なことは、このような学習権の侵害が、解放を目指す学力を育てていく基礎的な力を大きく阻んでいることである。したがって、この学力の低位性をそのまま放置するならば解放を阻害する結果となり、あきらかな部落差別として、その責任は厳しく糾弾されねばならないであろう。
 さらに、後に述べるように、この学習成績の低位性は、同和地区生徒の高校進学を大きく阻む役割を果たしており、それはひいては、将来の就職(職業)を制限する大きな要因となり、人間としての基本的な生存権を奪うことにもつながっているのである。このような面からも学力の低位性を一刻たりとも放置することは許されない。なぜならば、それは、同和地区生徒の息の根を止める結果に他ならないからである。」(「同和教育白書」より)

2、五項目要求から加配教員の獲得へ
(一)「五項目要求」と教育長差別発言
 以上のような当時の状況の中で、昭和45年、被差別部落の父母から、「私達の子どもが高等学校、とりわけ公立高校に進学できないのはなぜか、またその原因はどこにありどのようにすれば子どもの進路は打開されるのか」という課題が出され、昭和45年12月11日、上宮川協議会会長大川出弥、部落解放同盟芦屋支部支部長山口富造の名で、「学級定員を減らす」、「加配教員の確保」、「公立高校への進学保障」などを含めた「五項目要求書」として、市長及び教育長に提出されたのである。
 しかし、この五項目要求の市教育委員会の受け止め方は、同和問題の基本的認識や、部落差別の実態に対する認識の欠如を白日のもとにさらけ出すものであった。
 昭和45年から芦屋市において「芦屋市同和対策審議会」が設置され市長に対し答申が出されていたものの、施策としては具体的になにも進んでいなかったことも明らかになったのである。
 五項目要求に対する教育長の回答は、以下のような重大な教育差別発言であった。教育芦屋を標榜する市教育長(道盛正)は、「こぼれおちる子どもが出来ても仕方がない。一人も取りこぼすことのない教育を理想として努力しているけれども、法的規制、権限の所在、財政負担能力、教員個々の指導の限界もある上、要望の30人学級、同和加配教員36名の確保は、現実の問題として実現はむずかしいので、一挙に一人も取りこぼすことのない教育の実施が出来ないのも仕方がない」と開き直り、また「教育は親の義務である」という発言を重ね、要求を受け入れることを拒否したのである。同対審答申を引用しながら、「本市でも昭和31年芦屋市同和教育協議会が結成され、市教委と一体となって本市の同和教育の振興に努めています。教育に携わる我々の責任の重さを自覚したいと思います」。(『あしや教育』7 昭和44年版)という教育行政が、いざ具体的に部落の要求に出会ったときに、如何に露骨な差別性を示すかの顕著な証である。先述した同和教育白書にみられる差別教育の実態に照らすとき、「落ちこぼれる子どもが出来ても仕方がない」「教育は親の責任である」という発言は、差別発言以外の何物でもなかった。

(二)同和教育の推進と加配教員の配置
 この教育長の差別発言は、芦屋市の表明する「一人一人の教育を大切にする」という真のあり方や内容は何であるのかという根源的なものを問うこととなった。
 すべての子どもが幸せになる教育とは、いったいどうすればよいのか、落ちこぼれをなくする教育実践はどうなのか、部落の子どもの進路を保障する手だてはどうあるべきかがはげしく問われる中で、五項目要求の一つ一つを実現していく以外にないとの結論に達し、芦屋市教育委員会において具体的な取り組みが開始された。
 特に教育行政としてやりうる最大のことは、教育条件の整備、とりわけ同和加配教員を確保することであった。このことをして市教委自ら、「教員は教育の最大条件」と言わしめることとなったのである。
 この五項目要求を市教育委員会が真摯に受け止め、その後の芦屋教育の抜本的な見直しをはかったことは、指導と助言の方針に示されている。つまりそれまでの芦屋教育を市教委自らが差別教育と捉え、その反省点にたって芦屋教育の最大の柱を「同和教育」の深化として捉えたことは、芦屋教育の180度の転回を示すことになった。
 昭和46年11月16日、芦屋市教育委員会は、教育長道盛正の名前で兵庫県教育委員会教育長白井康夫あてに、47年度の加配教員要望書を提出した。 しかし、県の対応は全く不誠実であり、何の連絡もないまま事態は推移していった。その後市教委、学校現場教師、部落解放同盟芦屋支部の3者を中心として、半年間に及ぶ県教委との交渉の中で、同和加配教員の加配を獲得した。その結果、昭和49年度になってようやく県教委に要求した人数をほぼ満たす教員が確保されたのである。ちなみに、この半年間に及ぶ芦屋市の県教委に対する同和加配教員獲得の運動の結果、全県下に300名余の加配教員の配置を実現させたのである。
 この同和加配教員獲得運動を芦屋市教委は次のように総括している。
 「本市における実践の波紋は、当然ながら阪神各市はいうにおよばず兵庫県下全域に解放運動の発展と深くかかわりながら拡大していった。個々にはいろいろの問題をひきおこしたが、いわば点から面への広がりを見せたことは特筆すべきことであろう。
 たとえば同和加配教員の配置について述べてみると、本市が同和加配教員の配置を要求しその制度を確立すべく県とはげしい折衝を続けた段階では本市外ではあたかもそれが不当、非合法のように批判が集中し、闘いのブレーキになった。しかしその要求の正当性が県教委に認識された段階では、いままで『不当』であった加配教員の配置が反転して『正当』なものとなりいっせいに県教委に対してその配置を要求していった。
 ところでそのことの是非はともかくとしてこれを機に県下の同和加配教員は本格的に制度として位置づけられていった。また各市の同和教育協議会の活動も、進路保障の具体的とりくみも形式的活動を脱皮し、次第に内容のあるものに変わっていった事実は画期的といえるのではなかろうか。」(『30周年記念誌』より)

3、進学保障制度の実施
 義務制における加配教員獲得闘争と平行して芦屋市における唯一の市立高校である市立芦屋高校において、市教育委員会は、次のような見解を整理した上で、昭和46年4月、進学保障制度を実現した。
  1) 昭和46年度市芦高入学許可人員を168名とする。
      (160名の2%内外という考え方はとらない。)
  2) 168名は160+8とする。
  3) 168名の入学を許可した以後の処置として、施設・設備及び教員配置については適切な方策をとる。さしあたって同和教育加配教員3名を配置する。
  4) 上記の8名についての特別事情具申は同和問題の視点から行う。
  5) 168名の定員の意味は次のように考える。
  (a) 8名は定員枠外である。
  (b) 部落解放を中心軸とする高校全入(すべての生徒に完全な後期中等教育を保障する)の第一歩と考える。
 同時に、47年度以降の進学保障についても、市教委としての方針を確立した。そして47年度入学生から、学級定員を40人から35人に減らすとともに4クラスを5クラスに編成替えし、肢体不自由生徒も進学保障の対象に加えた。他方、同年度内に本校舎増築を完成させ、加配教員も配置して条件整備を行った。
 また、この進学保障制度が一般市民に正しく理解されるために、芦屋市教育長、市立精道・山手両中学、市芦、上宮川協議会、部落解放同盟芦屋支部の連名で、以下のような内容のリーフレットが発刊されている。
 「今日、芦屋市内では中学卒業生の95%以上が高校に進学しています。このうち公立高校への進学者が約65%、私立高校への進学者約30%となっています。この事実は、高校教育が小中学校教育と変わらず、実質的には義務教育化していることを示しています。高校教育を受けることは、全ての子供やその父母にとって正当な権利であると同時に、子供や父母の要求に沿って、その就学の機会的均等が保障されなければならないということです。
 しかるに、被差別部落においての高校進学率を見ますと、近年進学者が漸次増加しつつあるとはいえ、まだ80%に満たない状況です。市内全体と比べ、10数%も進学率が低く、また公立高校進学者が約30%しかないという被差別部落出身生徒の進学状況を、わたしたちはどのように考えるべきでしょうか。
 現在の高校は選抜入試制度をとり、有償(授業料その他諸費用を徴収する)であるということから考えても、家庭条件の保障されていない生徒にとって、高校の就学環境は、差別を受けつづけてきた人々を、いっそう苛酷な差別・選別のふるいにかける仕組みになっています。
 差別の中における教育の意味を、教育の中にある差別を、被差別部落の父母は自らの身をもって知っています。それゆえにこそ、この差別の悪循環をあらゆる面から断ち切り、基本的人権(中でも生存権)の保障として、「公立高校」進学保障を行政に要求してきたのです。
 部落解放の視点から教育を考えるならば「義務教育化」=「人間として生きてゆく上に最低限必要な、教育を受ける権利となっている高校教育」を、国および地方自治体が、解放教育を徹底し、かつ費用もかからぬ「公立高校」教育を、その責任において保障するのが、憲法・教育基本法の趣旨に沿った正当なあり方と考えます。
 部落解放運動が明らかにした教育にみられる差別は、被差別部落出身の生徒のみならず、全ての子供に生存権としての教育権が完全に保障されていないことを意味するものです。
 保障内容は、部落出身生徒及び、一般的に基本的人権が著しくおかされている生徒を「点数」のみで切り捨てることなく、教育保障を目指すというところに主眼をおいた措置であります。部落解放の視点をもち、部落解放を目指すことは、単に被差別部落の人々の問題ではなく、毎日の仕事に励み、子供の将来を考える父母にとってきわめて身近な、重大な意義をもつものであるということが明らかでありましょう。
 今回の入学保障は全ての中学卒業者が、一人も取りこぼされることなく完全な後期中等教育が受けられるという、人権保障への第一歩を踏み出したものであることを、私達は確信します。」(以上「リーフレット」要約)

二、市芦を含む「同和教育」の評価

1、同和加配教員削減反対を闘った市教委
 芦屋市における「同和教育」推進とそれにともなう加配教員獲得運動以後、着実に「同和教育」の実践が根付いてきた矢先、県教委は昭和52年11月、芦屋市に対して、芦屋の小・中学校に54名配置していた同和加配教員を一挙に半数近くにまで削減することを命令してきた。しかし芦屋市教育委員会は「同和教育」についての理解と実践がようやく軌道に乗り市民に根付いて来つつある時期に教員を大幅に削減することはどうしても同意、協力できないとして芦屋市あげての徹底した加配削減反対運動を展開していった。
 昭和52年12月には削減反対の六者会議(芦屋市教育委員会、校長会、芦屋市同和教育協議会、芦屋市教職員組合、部落解放同盟芦屋支部、芦屋市立芦屋高等学校教職員組合)を発足させ、12月20日には市議会あげて削減反対を決議した。同時に削減反対ビラ、市教委見解ビラを作成、市民に市教委の見解を広く伝えるとともに県に対して芦屋浜の埋立地に対して給水ストップという非常手段でもって徹底した削減反対の意思を示した。この半年間に及ぶ芦屋市の県に対する反対運動は、芦屋市教育委員会ならびに芦屋市が、あげて「同和教育」を守り抜こうとした証左である。

2、市教委の「同和教育」の総括
 昭和56年5月に芦屋市教育委員会が発刊した30周年記念誌に五項目要求を受け同和教育を芦屋教育の中心の柱にすえて以降の昭和46年から昭和55年までの10年間の芦屋教育について以下のような文が書かれている。
 「顧みれば、この10年間はまさに激動の10年間であったといえよう。芦屋市の教育の歴史にとって、これほど大きな変革期はかつてなかったといっても過言ではなかろうと思われる。
 同和問題の早期解消を目指すための厳しい問いかけと点検から、これまでの『いわゆる芦屋教育』の内容に根本的な省察を加えて、もろもろの制度や、教育の内容・方法に思い切った改善を加えてきたのがこの10年の歩みであった。 同和教育の視点は、人権尊重の教育の具現にあることから、差別のない社会の実現を目指すことを起点として、障害児教育の見直しや、学校経営、学級経営、授業のあり方、評価の方法など教育の全般にわたる根本的な改革の必要に迫られることになった。」(『30周年記念誌』より)
 また、前市長松永精一郎は、この30周年記念誌に以下の一文を寄せている。 「芦屋教育の質的転換が図られ、一人一人を大切にする先導的な教育実践が着実に進められた意義の深い10年間でもありました。」
 昭和45年12月、地区の父母による五項目要求を受け、芦屋市教育行政はそれまでの芦屋教育に対し、全面的な見直しを図るとともに、同和教育の推進を柱にすえた新しい教育方針を確立した。そのことは、市教委自ら次のように明言している。
 「<本市の教育方針> 同和教育の推進は、本来あるべき教育そのものの推進であるとする本市の教育指導方針は昭和46年以来、一貫して示してきたところである。(別章,指導助言の方針参照)これは、日本国憲法および教育基本法の理念を具現化するものである。そして、同和対策審議会答申に応えるものでもある。」(『30周年記念誌』より)
 具体的には、各年度毎に市教委より出される指導助言の方針に、以下のように示されている。
 「<指導助言の方針> 芦屋市の教育は、昭和46年から、憲法・教育基本法の精神の具現化をめざす根本的な改革を行い、指導助言の方針として、
  1) 人間の精神を養い、差別を許さない認識と行動力を育てよう
  2) ひとりひとりの可能性を伸ばし、豊かな個性を育てよう
  3) たくましいからだ(体力・気力)とゆたかなこころ(情操)を育てよう
を根本の柱とし、人間尊重の教育を一貫して推進してきた。」(『30周年記念誌』より)
 「<具体目標> 差別のない人間尊重のまちづくりをめざす。一人ひとりの人間が、かけがえのない存在として尊重され、その可能性が最大限に伸ばされるためには、社会のなかにおけるさまざまな矛盾が除去され人間尊重のまちづくりが実現されなければならない。
 そのためには、自己のおかれた社会的立場の自覚をすすめる学習を推進するとともに、人間尊重の社会実現のために、他と連帯して力強く生き抜く意欲と実践力を高めることが必要である。
 しかしながら、一方では、こうした努力を阻む心理的差別や、社会構造の厚い壁が存在することも事実である。
 このことを考えると、差別のない社会実現のために、教育が果たさなければならない責務はきわめて重要である。家庭教育、学校教育、社会教育を通じて一貫した人間尊重の教育理念がつらぬかれるよう、それぞれの場において、実態を点検し、具体的な努力を傾注していきたい。
 学校現場においては、教育課程の全分野をとおして、人間尊重の教育を具現するため、基礎学力の徹底をはかるとともに、差別解消のための科学的な知識と、人間の生命に対する畏敬の念を育てることに努めたい。
 社会教育諸活動においても、市民のなかに、人間尊重に対する正しい理念と認識が広がり、差別のない人間尊重のまちづくりをめざす積極的なとりくみがより進展するよう、いっそうの努力を続けたい。
 家庭教育についても、祖父母・父母が、子女に対して、差別の相続人をつくらないために、みずからの差別意識にきびしい自己反省をし、たえず自戒につとめる努力がなされるよう、同和教育に対する啓発をいっそう充実させることに努めたい。」(『30周年記念誌』より)
そして、昭和46年度から昭和55年度までの10年間および昭和56年度から昭和63年度までの8年間の各年度の指導助言においても、一貫した人間尊重の精神に徹し落ちこぼしは断じて許されないという立場が示され、どのようにして「ひとりひとりを生かし伸ばす授業を創造するか」が指導助言の中心課題とされている。
 最後に、『本市における同和教育の実践の意義』の中において《(1)教育諸課題への点検軸として》の部分で以下のような総括をしている。
 「本市における同和教育実践の取組みは、従来の「芦屋教育」に対しあらゆる面で根底的な問題を提起することになった。教育行政はもちろん、学校現場にも社会教育現場にもきわめて大きい影響を与えた。同時に、単に教育面にとどまらず、一般行政に対して同和問題のかかわりを広く提起することにもなった。以下にその意義のおもな事柄を列挙しておきたい。
 (ア) 五項目の要求は同和地区からの問題提起であったが、その内容は市民の全ての教育権にかかわる問題であり、基本的には「公教育とは何か」という問題であった。文字どおり、民主教育のなかみとして「一 人ひとりの具体的な実践課題」として提起されたことである。
 (イ) 同和教育をとおしてまず「子ども観」「人間観」を問いなおしたこ と、それは教師にそくして考えれば授業観、教育観、さらに教育思想 にまで及ぶ重い問題であったこと。
 (ウ) 進路保障のとりくみが単に進学、就職の「仕分け」の作業でないことを明きらかにし、すべての課程の発達段階の内容をきびしく問い直    したこと。具体的には、保育の段階から小学校・中学校の各段階の課題として認識したこと。
(エ) 実践とかかわって教育制度や教育条件に迫る課題が明らかになったこと
(オ) 教育内容と深くかかわって教育方法、指導技術への専門的力量を問い直したこと。
(カ) 障害児教育の点検とその学習権の保障の実践課題が明らかになった こと
 (キ) 社会教育における啓発、とりわけ市民啓発への組織的なとりくみの 重要性を認識したこと。
 (ク) 社会教育事業のすべてにわたって基本的見直しをしたこと。
 (ケ) 行政職員の基本姿勢と認識の重要性を自覚したこと。
 (コ) 進路保障のとりくみの発展が企業も含めてその差別の壁をつきくずしはじめたこと。
などあらゆる部面にわたっての点検軸となっていった。」(『30周年記念誌』より)
 五項目要求を受けて以降、芦屋市教委の「一人ひとりの子供を大切にする」「同和教育を根本の柱とする」という教育方針は現在に至るまで貫かれていることとなっている。芦屋市教委は、一度たりともその教育方針の変更を宣言したことはない。市立芦屋高校はそのような市教委の方針にたがうことなく今まで一貫してその精神にのっとって教育を行ってきた。そのことは15年間にわたり進学保障制度を維持してきたことにも示されている。
 また芦屋市は、その広報紙である「広報あしや」紙上において、昭和48年を中心に、「同和教育のめざすもの」「すべての青少年に高校教育を」「障害児の高校教育」等の特集を逐次組み、市芦の進学保障制度を柱とする教育活動とそれを支持する芦屋市教委の教育方針について理解を深めるための記事を出しつづけていた。主な記事を拾い集めただけでも、昭和48年には298,303号、昭和49年には322号,昭和50年には339,342,344,347,352号、昭和52年には375号、昭和54年には402,403号と、数えあげればきりがないほどの特集記事が組まれているのである。
 市芦の教育活動は市教育行政の基本方針にのっとりながら、それを教育現場において徹底して追求してきたものである。
 市教育行政の基本方針が憲法・教育基本法にのっとり、人間尊重の教育をめざすかぎり、市芦の教育活動は市教委によって支持されるものであった。
 市教委がその方針を放棄した時、市芦の教育活動への弾圧が始まったのである。