三、 市教育行政(市行政)の転回と市芦教育への権力の介入

1、県教育行政の転回と高校全入思想の清算
(一)被差別底辺からの高校全入運動
 昭和37年に市立芦屋高校が設立され、昭和46年に進学保障制度が実施された10年間というのは、全国的に見て、それまで60%に満たなかった高校進学率が80%を越えるまでになった時代であった。
 高校進学率が20%もあがった背景には、第一次ベビーブームの波が高校に押し寄せた昭和30年代後半の都市部における都市中間層を巻き込んだ高校増設・希望者全入運動があり、高度経済成長という財政的条件があったことは先述したとおりである。
 ところが、昭和30年代後半の高校全入・増設運動がその主たる担い手であった都市中間層の子供達が高校に収容されるに及んで終息していった時、後に残されたのは社会的差別支配の下で抑圧され、経済的に低位にして文化・教育条件でも劣悪な子供達であった。昭和40年代の前半から後半にかけてはこれらの子供達の後期中等教育を保障することが高校全入の課題となっていった。 この課題は部落解放運動の教育要求とも結び付くものであった。 当時、これらの被差別底辺の子供達が辛うじて辿り着くことの出来た高校は定時制・通信制高校であった。兵庫県の高校に於ける解放教育の実践は、このような中卒で学歴社会に出た場合、どのような差別待遇を受けるかを思い知った青年労働者の生活土台と人間的要求に向き合った少数の定時制高校教師によって取り組まれていった。
 昭和43年湊川高校(定時制)では部落問題研究部が核となって、育友会費不正使用問題に端を発する「一斉糾弾」が始まり、翌年には尼崎工業高校を先頭に県下瀬戸内沿岸の高校で差別教育体制に対する糾弾闘争が燃え上がった。
 これらの闘いは、就職の機会均等を要求の核に据えながら、昭和40年代後半に入ると神戸市や兵庫県の人事委員会の差別選考を糾す糾弾闘争へと発展し、やがて職安行政をも巻き込んで、就職選考時の社用紙の廃止や本籍地を都道府県名にとどめること、戸籍謄本類の不提出、企業サイドの身元調査拒否を実現していった。さらに就職差別反対闘争は国家公務員初級採用試験の抜本的改善、身体障害者・在日朝鮮人生徒の就職差別問題、市販履歴書の様式改善、阪神六市における心理テストの採用試験からの除外などその取り組みを全国に先駆けてすすめ、ひろげていった。
 これらの取り組みは、県教育行政の諸施策としてみてみると次のものがあげられる。
・部落奨学金の支給(昭和41年)
・勤労生徒奨学資金貸与規則の実施(昭和43年)
・近畿就職統一用紙の制定(昭和45年)
・定時制・通信制授業料全廃、勤労生徒奨学金の国籍条項の撤廃、小・中・高校へ同和加配教員300名配当(昭和46年)
・兵庫県進路保障協議会設立(昭和47年)
・定時制・通信制の教科書無償配布(昭和47〜48年)
・定時制学級定員40名を38名に引き下げ(昭和49年)
 これらの施策は同対審答申・特別措置法の裏付けがあって実施されたものであるが、これによって行政側の教育保障体制づくりが飛躍的に前進したといえる。
 芦屋の教育行政も県教育行政のこれらの流れと重ね合わせて考えてみると、被差別底辺層の子供達に市芦で後期中等教育を保障しようとしたといえる。
 それは昭和46年に進学保障制度を実施したことに始まり、市奨学金制度の設置・拡充、加配教員の配置を行政施策として実施していったことに現れている。

(二)県教育行政の反動的転回
 ところが昭和48年のいわゆるオイルショック以降、構造不況が打ち続いていき、底辺層の生活破壊が深刻になっていく状況を背後にもって、八鹿高校事件や尼崎育成調理師学校差別事件を契機に県行政への糾弾闘争が火を吹くや、坂井県政は糾弾権を否認する姿勢に急変した。
 教育行政面では昭和50年3月に運動と教育の峻別を骨子とする第307号通知を出し、従来の解放運動に学ぶという姿勢を否定した。
 昭和50年、県教育長に就任した小笠原は県教育行政をそれまでの「ひかりを教育の谷間に」という方針から「教育の中に厳しさを」という方針で表される能力主義教育、エリート養成教育が復権されねばならないと広言した。そのためには学力別・能力別学級編成が必要であり、差別・選別による教育原理を強め、教育効果を高めよと主張し、家庭が経済的に破壊されて、切り捨てられた生徒一人に徹底的にかかわっていく教育は残りの40数人が犠牲になるから許すことが出来ない、民生行政の範囲で対応せよと言った。
 これはそれまでの高校全入の思想を否定するものであり、昭和50年以降、県教委は「教育に厳しさを」の方針で被差別底辺層の子供達の後期中等教育の場を奪っていった。
 まず昭和50年4月の県立全日制高校の授業料値上げに始まり、昭和51年には「生徒の指導体制の強化について」の通達が出され、生徒の非行や問題行動に対しては毅然たる態度で臨み、手に余れば警察との密接な連携によって解決せよ、といういわゆる学警連携体制の強化が打ち出された。
 昭和52年には上意下達の管理体制を敷くために主任制が強行実施され、この年度末には加配教員の引き揚げと計画交流の名のもとに不当配転が大量に行われるようになった。
 昭和53年には三万人もの署名による存続要望のあった御影高校(定時制)を募集停止にし、働きながら学ばざるを得ない底辺労働者の教育機会を奪った。
 昭和55年には定時制・通信制の授業料を再徴収した。
 このように「教育に厳しさを」の路線は被差別底辺層の教育の機会を奪うだけではなく、まさに人間尊重教育から優勝劣敗の生存競争を子供・親・教員に強いる差別・選別教育への許すべからざる方向転換であった。
 しかもきちんとした教育方針を持たずに、部落差別を利用して、恣意的な教育行政をなりふりかまわず権力的に行ったことは教育破壊以外のなにものでもないのである。

2、市教育行政の後退
 昭和50年度から始まる県教委の方針転換に県下の各市町村の教育行政が一挙に追随していくのに対して、芦屋市教育行政は当初従来の方針を取り続けた。
 それに対して県教委は芦屋市教育行政に権力介入を行った。それは芦屋の小、中学校の同和加配教員の削減という形をとった。 市教委は昭和52年度、53年度と二度にわたり対県教育闘争に取り組んだが、二年連続同和加配教員を削減された。県の同和加配教員削減の動きに合わせて、市教委も市芦に対して、欠員不補充という形で同和加配教員の削減を始め、昭和53年度末には同和加配教員を一名削減した。
 この年から市教委は市芦に対して欠員不補充の方針で臨み、「一人一人を大切にする」芦屋の同和教育の方針を掲げながらも、教育条件の引き下げを加配教員の削減という形で行なった。 翌、昭和54年度末には大角、滝山、森村三教諭を市教委事務局へ強制配転し、三名の加配削減をもくろんだが、組合、卒業生、在校生の「先生を返せ。市芦をつぶすな」の声に、市教委はその非を認め、一年後現場復帰させた。
 このことからも、芝田教育長時代の市教委は、市芦に対して欠員不補充の方針で加配教員を削減するなど条件整備面では後退していったが、芦屋教育の歴史を踏まえ、現場の苦労を知っていたから教育現場の声を無視しては教育行政が進められないという姿勢は持っていたといえる。 ところが、昭和57年4月、同和対策事業特別措置法が地域改善対策特別措置法へと名称変更され、国の同和対策事業が大きく後退していく動きに合わせて、芦屋市行政の中での県や国の方針におもねる動きが起こってきた。
 これは教育行政に関していえば、「本市は行政の重要な柱に教育の充実を発展を一貫して位置づけてきている事実があります。ただしその柱とするところは同じでも、内容と理念については、昭和46年以前と以後には基本的な相違がありました。その違いは一言でいえば以前が典型的な『進学エリート教育』(それは裏返せば子供の切り捨て教育)であり、以後が『すべての子供の学ぶ権利を保障する教育』(それは“落ちこぼし”をしない教育)であるといえます。この画期的な転換は単に理念の転換にとどまるだけでなく、具体的な子供の教育条件の向上という行政措置をはらんでいました」(広報あしや)という昭和46年から始まる芦屋の教育を否定するものであり、「勉強できる子に金をかけてこそ効率があがる」という県の差別・選別教育の方針を市教育行政に導入するものであった。
芝田教育長はこの動きに対して、従来の教育方針を貫こうとしたが、病気のため辞職し、代わって松本が県との太いパイプを買われて教育長に就任した。
 県との太いパイプとはとりもなおさず松本教育長が県教委の方針をそのまま芦屋で実行することにほかならない。
 教育長交代を契機に、芦屋市教委はそれまでの現場の声を聞いて教育行政を進める方針から一転して、教育現場に権力的に差別・選別教育を押し進める方針に変わった。それは、教育に対する中央集権的な権力支配を加速するものでもあった。

3、松本教育による市芦教育への介入
 昭和61年7月、芝田教育長に変わって教育長に就任した松本は、就任以来、学校現場に指導と助言を越えたむきだしの権力介入をおこない始めた。
 その手始めは教育過程編成権を学校現場から剥奪することであった。
 市芦においては、従来から学校内で各学年、各教科で討議され、さらに教務部のカリキュラム委員会で検討され、職員会議で討議され、校長によって承認されていた教育過程が実施されてきたが、昭和62年度カリキュラムについてはこの手順がふまれていたにもかかわらず、市教委は一方的に不承認にするという事態が起こった。
これはあからさまな教育現場に対する権力介入の一例であるが、この権力介入をやり遂げるために、市教委は労使慣行を無視し、処分と強配をセットにした組合つぶしを強行した。
 処分と強配をセットにした組合つぶしは、昭和52年度より県教委が県立高校の学校現場に対して行ってきた弾圧の手口であるが、松本はそっくりそれをまねて、市芦の解放教育をつぶそうとしたのである。
 すなわち、二名の組合役員を停職にし、組合結成時からの中心的存在である教員を強配しておいて、市教委がやったことは昭和62年度新一年生のカリキュラムの押し付けであった。
 そのカリキュラムは一年の二学期から英語と数学の能力別学級編成を行い、二年から大幅な選択制を導入するという、校内に差別・選別を持ち込むものであった。職員会議の席上、校長は教職員の質疑や質問に一切答えず「これでないと市教委が認めない」と居直り、挙げ句のはては「この学校は会社更生法下にあるようなもの。私は禁治産者の立場だ」と市教委の権力介入の前にもはや学校独自の決定権がないことをおのずから認めたのである。それまで円滑に行われていた、校務運営は昭和61年10月以降、職務命令という形でなされ、校長は市教委の以降を上意下達的に伝えるだけとなった。
 このようにして、市教委が学校の決定権を奪ったため、従来円滑に進められていた教育現場の体制が一気にねじ曲げられてしまった。
 市教委は昭和62年3月の市議会で、加配教員全廃ということを隠蔽したまま市芦の教育条件の大幅な切り下げにつながる定数条例改悪の議案を通過させた。
 その場においてはまともな趣旨説明ひとつ行うことがなかった。さらに、3月の入学試験では定員内であるにもかかわらず、33名もの大量不合格者を出すことで進学保障制度を実質的につぶした。
 引き続いて、3月末、6名のベテラン教員を市教委事務局へ強制配転した。10月に強制配転された教員と合わせて、7名の教員は市芦の解放教育を積極的に担ってきたと同時に組合の活動家であった。この事実は、強制配転が市教委の市芦教育現場に対する教育支配を意図したものであることを露骨に物語るものであった。

四、松本「教育改革」の実態(弾圧後の市芦教育)

1、手段を選ばぬ組合つぶし
 松本「教育改革」とは一体いかなるものであったのか。
 それは彼が教育長に着任した昭和61年7月と市芦弾圧後の昭和62年9月の市芦の姿を対比させてみれば一目瞭然である。
 市教委は昭和61年9月29日、当時の河村分会長と深沢書記長に対して「無断職場離脱」を口実に停職一ヶ月の処分を発令して、組合の執行部に直接弾圧を加えた上で、10月1日に組合の中心的存在であった鈴木教諭を体育館に強制配転した。
 二人に対する停職処分は長年の労使慣行を無視したもので、組合つぶしのために理由を後からデッチあげた政治処分であることは全職員の中で二人だけをしかも火曜日だけ見張ったこと、処分を言い渡した二日後に鈴木教諭を強制配転していることからも明らかである。
 また「無断職場離脱」という処分理由を捏造するために、それまで各人が校務の必要性に応じて出張し、事後に出張命令簿に記入してから報告していた慣行を7月から急に認めなくなった。それも9月1日の職員会議で全職員に知らされるという理不尽なやり方であり、中には管理職が一度押した確認印を後から白い修正液で塗られた職員もいたのであった。
 さらに教育を高めるためにどこで研修していようと、また研修内容も各教員が創意工夫し、実施することが認められていた。
 条例には「勤務時間は一週42時間とする」としか定められていないにもかかわらず、8時30分から16時57分までの一日の勤務時間を束縛時間として一方的に押し付け、研修や出張すら認めないことは、深夜に及ぶ家庭訪問など校長が命令できない部分を組合が積極的に担ってきたからこそ市芦の教育活動が成り立っていた事実を否定するものである。
 夏休みの理科と社会科の出張研修に対して、それまで認めていた民間教育団体の研究集会参加にクレームをつけ、官製研修のみ認めるという研修の自由を制限する動きと合わせてみるとき、その狙いが教員を時間的にも思想的にも市教委の支配下に置こうとしたものであったことがわかる。
 次に鈴木教諭に対する強制配転は鈴木教諭が組合結成時からの活動家であり、昭和54年度末の3名の強制配転時の書記長として強制配転反対闘争を指導し、市教委にその非を認めさせた存在であったから、組合の抗議活動を恐れて、組合役員2名を停職処分にしておいて、なおかつ年度途中、しかも1時間目の授業が終わった直後に配転を言い渡すという常軌を逸したものであった。
 またそれまで100パーセントの組織率を誇っていた組合に対して直接弾圧と合わせて管理職による組合員個人に対する陰湿な攻撃が加えられた。
 そのやり方は、組合員全員に対して分限免職もあり得ると恫喝どうかつを加えた上で二度にわたる希望退職を募集し、特定個人を校長室に呼び込んで「異動希望を書け。処分もあり得る状況に君はいる」とおどしたり、臨時的任用職員や実習助手、他校に異動を希望している教員など弱い立場の者を狙い撃ちにするものであった。
組合つぶしの仕上げは定数条例改悪による定数を3名もしたまわる、活動家教員を教育現場から排除することを目的として、6名の教員を強制配転したことである。
 鈴木教諭の強制配転と合わせて、組合活動家を狙い撃ちにしたこの強制配転はどんな理由を市教委がつけようとも説明できないものである。
 臨時採用職員や定年を越えた教員などの非組合員は残しても、市芦の教育を10年以上にわたって担ったきた中堅教員7名を教壇から奪い去ったために、4月以降10名を越える時間講師を導入せざるを得なかった。
 社会科では6名いた教員を3名も強制配転したために、3名の時間講師では足りずに、教頭までが授業を持たざるを得なくなっており、美術科ではたった1名の教員を強制配転して2名の講師を新たに入れるなど異動の必然性ひいては定数条例改正の必然性そのものがないのである。
 これこそまさに組合をつぶすには活動家を根こそぎ排除するしかない事を物語る以外何物でもない。

2、民主的学校運営の破壊
 市芦では職員会議が学校の事実上の意思決定機関として位置付られて、現場の総意を形成し、代表する機能を果たしてきた。これを校長が認めてきたのは、それによって正常な校務運営がなされ、管理職として責務が果せたからである。
 しかし、昭和61年9月以降、校長、教頭が職員会議の意思を無視することで、現場の総意の代表者であることをやめていった。 昭和62年4月1日、校長が一言の説明もなく、討議に付すこともなく職員会議決定を改悪した。その内容は職員会議が校長の職務を助ける機関とされ、議長も教頭又は校長が指名する者と改悪された。職員会議とは名ばかりで、市教委・管理職の一方的な意志伝達機関に変えられていった。
しかも、4月1日以降一度も職員会議は開かれたことがなく、学校運営は管理職と新たに任命された主任が中心となって行うことを意図し、上意下達の体制に変えられてしまった。それ故に、校務運営は密室化し、出てくる指示のことごとくは非教育的であり、教員の意欲を奪うものであった。
 また校務分掌も職員会議で選ばれた分掌委員が希望を汲みながらも、学校全体の教育計画に即して調整して決めていたにもかかわらず、4月1日校長から突然、校務分掌表が配られた。
 その校務分掌表では校務運営よりも管理職の組合対策的な分掌配置がなされ、それゆえ本分掌にもとずく学校運営は様々な機能マヒをきたしている。それは当然、生徒へのしわ寄せとして現れている。例えば、進路指導体制など10数名の学年総がかりで進めていた進路指導をたった一人の就職担当に委ねたため、生徒の進路保障は破壊している。
 さらに、それまで教員は全員が1年から3年までの学年に所属していたのを解体して、主任と4名の担任団で学年団を構成することにより、クラス担任、教科担任総掛かりの緻密な生徒指導をなくしていった。
 これと合わせて、同和加配教員を全廃したため、ゆきとどいた生徒指導体制が一気に崩れた。
 それまでは、3年間クラスがえもせず、担任持ち上がりで「共に支えあうホームルーム」作りの条件が出来ていた。しかし、カリキュラム改悪のためクラスが解体され、2・3年生の中から通学がしんどくなった生徒が孤立し、退学へと追い込まれている。これと同じことが新一年生でも昭和62年9月以降起こってきている。それは英語と数学の二教科で基礎と発展とからなる学力別編成授業が実施されたことにより、低学力生徒の学習意欲が急速になくなってきていることによると考えられる。
 全学年をとうして、きめ細かな授業研究体制が破壊されたため、生徒から「わからない。もっとわかりやすく教えて欲しい」という声がまきおこり、その矛盾は大量に導入した時間講師の授業に集中している。教頭は「講師の先生の授業がわからない」と抗議にきた生徒に対して、「文句があるなら学校をやめたらいい」とまで放言しているのである。
 生徒会は昭和63年2月25日全校生のほとんどにあたるこの抗議の声を署名として集め校長、教頭に学校体制を元に戻すよう要求している。
 生徒の声に耳をかそうとする少数の教員の前には今の学校体制が巨大な壁となっている。民主的学校運営の破壊は生徒のつぶやきや悲鳴に一切耳をかさず、教育の荒廃を深めている。

3、解放教育否定、差別・選別教育へ
 昭和46年以降、市芦は進学保障生を中心とした被差別底辺層の生徒の教育権を保障する取り組みを続けてきた。障害生が全日制の高校に進学出来たのも進学保障制度があり、それを支える学校体制があったからである。
 ところが市教委は昭和62年3月の入学試験で定員内であるにもかかわらず33名もの不合格者を出した。その中には障害生1名を含む4名の進学保障生と10数名もの奨学生が入っていたのである。
 33名もの定員内大量不合格者を出したのは、市教委が高校入学の時点で、教育基本法の精神を踏みにじってまで、差別・選別教育のふるいにかけたことにほかならない。
 それまでの市芦の解放教育が大切にしてきた「共に生きる」という視点は出発点からなくされたのである。
 こうした暴挙を進めるために、管理職は合格者召集や終業式にも姿を見せず、10日を越える職務放棄という異常な事態を招来していったのである。
 落とされた33名の追跡調査をしてみると、改めて松本「教育改革」の無惨さに気付かされる。昭和62年12月時点で調査できた28名の実態は、定時制高校に入学し、現在も続いている生徒は5名だけである。通信制高校に進学した1名とあわせて、たった6名だけがかろうじて高校につながっているが、うち2名は昼間ずっと家にこもりきりの生活である。
 専門学校に進学した生徒も6名いるが、年間100万円を越える学費が親に大きな負担となっている。うち1名は夏に退学している。
定時制、通信制、専門学校いずれも受験しなかった6名のうち、2名は落ちたショックで現在まで何もしていないのである。縁故で就職できた4名がなんとか仕事を続けているが、調理見習い2名、ガソリンスタンド1名、塗装業手伝い1名と4名とも奨学生であった事実はまさに「貧乏人は高校に来るな、働け」という証拠である。
 さらに、定時制を不合格になったり、入学しても続いていない生徒のほとんどはアルバイトを転々としている。それでもガソリンスタンドやスーパーの店員であり、中には次のアルバイトがみつからずブラブラしている者や、とうとう叔父さんを頼って九州まで流れていった者までいるのである。
 以上にみるように、教育権の剥奪はただちに15歳の子供たちの生活と将来を閉ざすものとなっている。
 これらの生徒こそ松本「教育改革」の最初の犠牲者であり、そうした切り捨ては在校生にも向けられてきた。
 さらに昭和62年度、134名の受験者の中から33名切り捨てられて合格した101名のうち、2年に進級できたのは85名だけであった。
 こうした生徒切捨ての強行に先行して今回の一連の処分は行われたものである。
 組合への弾圧は、組合員から教職を奪うという不当労働行為にとどまらず、生徒への弾圧をもセットにしたものであり、生徒の教育権・生存権を奪っている。それ故にいっそう許し難いものである。