市芦があって何が悪いねん!市民の会

「市芦があって何が悪いねん!市民の会」ができました
市芦を廃校にさせないぞ

 芦屋市教委は3月26日、「市学校教育審議会(15名)の答申を受けて、市芦高廃校の基本スケジュールを半年以内に策定する」との新聞発表を行いました。
 私たちは大きな衝撃と憤りと不安でいっぱいです。
 審議会は、「市芦高のありかたについて」の諮問を受けていましたが、この諮問については、わずか3時間の審議時間をかけたにすぎず、しかもすべてを非公開の密室審議でおしすすめました。
 答申には、市芦高校に将来を託して入学してくる子どもたちがどうすれば個性豊かで人間味溢れる青年に育っていくことができるか、その方法が示されなければならなかったはずです。現在、全国の学校がさまざまな病理や問題を抱えていると言われていますが、市芦高校も例外ではありません。それ故に、あらゆる角度からの多様な意見を市民・関係者から吸収し、何が病理であり、何が問題であるのかがいろいろな面から明らかにされ、短期的、長期的な見通しの中で、その解決の一助が答申されねばならなかったはずです。

 諮問直前まで、市教委は「市芦高の充実、発展をめざすための見直し」との態度表明を繰り返していました。突然の方針変更です。
審議会は形だけのごまかしであって、まともに審議することなど念頭になく、最初から「結論ありき」であったとしか言いようがありません。問題を掘り下げようとするまともな教育論など煩わしく問題外とされたのでしょうか。「市芦廃校」を主張した審議委員は、多くの子どもたちの命綱をいともたやすく切ることにためらいを持たなかったのでしょうか。
 市芦高校に通う生徒たちの教科の成績と一部の生活・学習態度のみをあげつらい、生徒たちの抱えた生活や気持ちを少しも考えず、「少子化」と「財政危機」を口実として、学校丸ごと市芦高校に通う生徒を切り捨てたとしか言えません。これは、「全国的に学校が抱えている問題」に取り組むことを放棄することにほかなりません。「教育改革」の失敗を「廃校」でおおいかくすことは、誰が考えても無責任であり、恥知らずです。

 「少子化」が廃校の理由とされていますが、1986年以降の松本壽男教育長と当時の教育委員会により進められた「教育改革」が掲げた、「成績の悪い子は公立高校へくるな」という生徒排除の施策が、市芦高校の人間性豊かな教育の根本を破壊し、市芦高校を魅力の少ない学校にかえてしまいました。それにもかかわらず、ここ数年は不況の影響もあり公立高校志願者は減少せず、市芦高校でも応募者が募集定員を越えていました。審議会と市教委はこの事実を意図的に無視しています。
 「金がかかりすぎる」ということが、いま一つの「廃校」の理由とされています。しかし、教育こそ社会の財産であり、次代の育成こそ社会の土台です。親はたとえ何をおいても子どもの教育に物心を注ぐものです。ところが芦屋市では、教育費が削減され、緊急性のない過大な土木事業に莫大な税金が投ぜられ、それを食い物にする役人や市会議員がうごめいています。彼らが、「廃校」の旗振り役でもあることは象徴的です。土木事業を不必要に拡大して教育を切り捨てることは許されません。

 成績による序列化がますます進行する学校社会の中で切り捨てられ、人間としての尊厳すら奪われてきた生徒たちが、新たに自信と尊厳を自分のものとして、新しく獲得した価値観を土台として次の進路を見いだしていく貴重な「生活の場」として、市芦高校は存在してきたといえます。その過程で様々な問題も起こります。それでも、この若者たちの教育機会を奪うことなく、芦屋市の市民として自立させていくことは、芦屋市の教育行政としての責務であり、彼らの成長は芦屋市にとっては金銭にかえがたい財産でもあるはずです。

私たちは、「市芦高校をつぶさないで!」との声をあげたい。
まっとうな怒りをせせら笑い、したり顔で黙し続け、弱きを痛めつけ強きに迎合する今の流れに、「そうじゃないよ」と声をあげたい。
市民の方、卒業生の方、小学校や中学校や高校の先生方、子どもを持つ保護者の方、教育や保育に携わっておられる方、市行政を担っている方、それに自分たちの命運を握られている子どもたち、その他すべての人によびかけます。小さな声を重ね合わせてください。

「市芦高校をつぶすな!」という小さな声を重ね合わせて大きな声にするために、あなたも呼びかけ人に名前を連ねてください。

市芦があって何が悪いねん!市民の会
連絡先:shimin_no_kai@geocities.co.jp