市芦があって何が悪いねん!市民の会
抗議文提出

芦屋市教育委員会教育長 殿
芦屋市教育委員会教育委員長 殿

市立芦屋高等学校の廃校方針に強く抗議し、方針撤回を求める

 芦屋市教育委員会は、三月二六日、学校教育審議会の答申が出されるや、待ってましたとばかりに「市芦高校の廃校スケジュールを半年をめどに策定する」と、新聞発表した。
 寝耳に水の発表に、私たちは驚くとともに、理不尽なる方針に激しい怒りを覚える。直ちに発表を撤回し、市民に広く公開された場で市の教育方針が全面的かつ根本的に論議されることを強く求めるものである。
 そもそも審議会はこの問題をわずか三時間しか審議していない。しかも市民、関係者を排除した密室においてである。審議会は芦屋市の学校教育の点検、教育内容の充実のための審議をおこなう場である。そのためには審議を公開し、教職員、市民、場合によっては生徒からも、はば広く意見を聴取しなければならない。「学校(級)崩壊」が全国的な現象になっている今日、そのような審議こそ市民が期待し、求めていることである。
 ところが審議会は、市民の関心と期待が高まることを恐れるかのように、答申を急いだ。「市芦廃校」が既定方針だったからである。廃校答申が少子化と財政難だけで説明されていることに、「はじめに結論ありき」で運営された審議会の実態が如実に示されている。
 審議会本来の任務である本市の学校教育の現状と方向性を審議するのであれば、市芦の四〇年に及ぶ教育内容の総括、そこからの展望がまずもって審議されて然るべきである。市芦の存廃は然るのちに結論づけられるであろう。そのためには市芦の卒業生、在校生、保護者、教職員、そして市民の全面的な討議参加が必要である。
 それがまったくなされないまま審議され答申されたのであるから、「市芦廃校」は民主主義とは無縁の一握りの人間によって仕組まれた謀略であると言っても過言ではない。かつて市芦で学び、今現在学んでおり、将来市芦で学びたいと考えている多くの人々にとっては、この謀略は誇りを傷つけ、夢を踏みにじる暴力である。
 とってつけた理由である「少子化と財政難」は、はたして正当なものであろうか。
 少子化の今こそ、親と子の多様で多元的な学校教育に対する期待にていねいに応えうるまたとない機会ではないか。進学率の高さを誇る学校。自由な感性、のびやかな校風を誇る学校。さまさまな違いをもった人間相互の立場を認める市民に成長する教育を重視する学校。さまざまの学校が存在してよい。多様で多元的な選択肢を親と子に示すのは公教育の使命であり、少子化の現在こそ可能なのである。市芦四〇年の歩みは、少なくともそうした選択肢の一つとして市芦が存在してきたことを証明している。市芦つぶしは多様性の否定であり、画一的で管理主義的社会づくりのための強権的暴挙である。
 財政難をいうのであれば、まずなされるべきは不要不急にして利権と汚職の温床である総額数百億円の土木事業の即時中止である。年間予算五億円に満たない市芦を廃校にする理由などどこにもない。
 答申は、環境・福祉・教育を軽視し、開発優先・政官業の腐敗した癒着構造を温存する本市の行政に荷担するという、きわめて政治的な宣言である。げんにこの間の助役による収賄事件に加担し、それにたかった議員が率先して市芦廃校を唱えてきたのであるが、答申に同意した審議委員も同じ穴のむじなである。
 以上見てきたように、学教審答申には一片の合理性もないどころか、重ねていうが本市の住民無視でファッショ的な体質を是認し、一握りの特権市民の利益を優先する構造に加担する政治宣伝である。このような答申を「最大限に尊重する」という市教委は、市民に対する謀略と暴力を最大限尊重すると言明するにひとしい。
 まずもってその非を認め、市芦廃校方針を即刻撤回せよ。
 右、抗議し要求する。

二〇〇一年四月二〇日

市芦があって何が悪いねん!市民の会