10回生 C.H. 1987/7

 (朝文研の顧問だった鈴木先生の方から「10回生の先輩で、市芦ではじめて本名を名のり、一人で朝文研を作ってきた先輩です」 との紹介をうけて)
 大層な紹介のされ方をされましたので、どのような話をすればいいのかわからな いんですが、私は地域で青年を集めて活動し、勉強し祖国が民主国家になるため の様々な活動をしています。
 この市芦の問題でいいますと、仕事をやっていますので、直接ひんぱんに(学校のある)山の上にあがれませんので、 文化祭があれば朝文研の劇を見にいくぐらいでした。その 時々に鈴木先生はじめいろんな先生方からお話を聞くと、だんだん、だんだんしん どい話が多くなるんです。
 85年の朝文研の劇の感想で「初代の朝文研の顧問として、君たちの気持は痛いほどわかる」と言った現(前田和夫)校長の下で、 ぼくが本名を名のって朝文研を 作ってきてから、その校長の姿を含めて、人間というものは変るもんだし、180度 変わってしまった人もいるし、頑固に十何年前の立場を守り通そうとしている人も いるなあというのがまず一つ目の感想です。

 二つ目の感想は、とばされた先生らが宿舎の手配をしたり、クーラー病にがかっ たり、それぞれ大変な環境にいると思うんですけども、会そのものがなごやかなの に感心しています。 いま市芦の闘いで、最も求められるのは白紙撤回しないことだと思います。まず 市芦の中で生徒のことを考える先生が一人でも二人でもおり続けることが、もっと も獲得すべきものだと思うし、そういう闘いならば、しんどい思いをするよりも、それ に向けて和気あいあいとやった方がいいと感じました。

 感想めいていますが、やはり思うのは市芦に在籍するぼくの弟、妹たち、朝文研 の子供たちが一体どうなるのかとまず最初に考えます。次に市芦の生徒は一体ど うなるのかと考えます。
 個人的なことですが、ぼくは市芦に入学して大きな人間的変革がありました。一 つめはもちろん本名を名のったことです。私はいま三十三才で、市芦で本名を名の ってからやっと十六年間、なんとか人生の半分位は本名で名のった生き方をしてき たんです。これからも本名で名のる人生が多くなるんで内心うれしいんですが、こ れが第一点目です。
 第二点目ですが、最近このことの方がぼくにとって大切だなあと思うのは、当時 の部落研、ゴンタですね、ブカブカのズボンはいてバイクを乗り回すゴンタなんです 。ほくは小・中学校とアンクル・トムでしたから、民族的なものから逃がれるために、 逆に先生のお気に入りになってやりたいというアンクル・トムだったんです。そういう ぼくが、ゴンタの部落研の生徒とかは当然こわいわけです。つき合いがなかったし 、本名名のって一人でしたから心配な部分もありますし、淋しい思いもすることもあ りますし、そういう時に最もわかり合えた人間が部落研の子とか、一般貧困家庭の 子を含めて、進学保障で市芦に入ってきた彼らだったんです。

 先ほど連帯という言葉が出ていましたが、ぼくにとって最も連帯すべき、もっとも わかり合えるべき人間かまさに部落研の人間であると、部落の人間から始まって、 今までほくがもっていた社会のしくみ、弱者・強者、頭のいい人間・悪い人間、見映 えのする人間と見映えのしない人間、そういう社会通念をまるまる受けていたぼく が、本名を名のることによって、もっともわかり合わなければならない人間、部落研 の人間とわかり合えたこと。このことの方がぼくにとっては大切なことだったと、いま 改めて考えています。
 市芦の教育は必要だと思うし、朝文研も必要だと思います。学校の教育で人間 が変わるとは全然思っていません。やはり人間が変わるのは実践の中で、社会の 中で悪戦苦闘する中で、はじめて人間は変わると思うんです。それはやはり教育だ と思うんです。学校の教育だけで変わるとは思っていませんけども、人間はより高く 飛ぶためには、より長い助走距離が必要たし、そういう意味で市芦はほくにとって 素晴しい助走路だったと思うんです..そういうことが、朝鮮の子供や部落の子供たち 、様々な問題をもっている子供たちが、そういう助走路を求めていると思いますか ら、市芦の教育を何としても残す闘いをこれからやっていってほしいと思います。
 また話が現校長のことに戻りますが、はっきりいってあの人とあの人に代表され る人達が、人間としてやってはならないことをやったと思うんです。子供の願いを踏 みつぶすということは絶対やってはならないことだし、人間としてやってはならない ことをする人達に対しては、ぼくたちが人間としてしなければならないことで答えて いくしかないと思うんです。
 これからの市芦救援会の闘いに、たいしたことはできませんが、ぼくも何らかの 形で参加していきたいと思います。