19回生 K.N. 1986/10

 10・20集会に参加して、三人の先生の話はもちろんの事ですが、私も市芦の卒業生として卒業生の話を聞き、涙で訴える姿に、涙があふれて止まりませんでした。市芦の素晴らしさ、市芦しかない良さをわかろうともせず、「市芦つぶし」として、今回のような行動に対し、私は言葉で表わす事のできない怒りを感じています。
 市芦の素晴らしさ、市芦しかない良さを、市教委や世間の人達は、わからないということは、言いかえれば、かわいそうだと思う。本当の教育を知らないということ、自分の事しか考えられない人間…。しかし、だからといって、今回の事は許される問題ではない。自分の出世や名声のために、人間が人間を切りすてる事は、私は絶対に許さない。
 私の家は家族が多く、父の会社の倒産、そのため、父は、酒びたりになり、しまいにほ重度のノイローゼ、生活苦など、さまざまな事があり、私は、奨学金を取っていました。
 そんな事で、私自身、暗い人間になり、小学校の頃は、家が貧しいからということで、きたないものを見るような目で見られていました.人の目を気にして、授業中など勉強は頭にはいらず、学校も良く休んでいたので、だんだん勉強がわからなくなりました。
 そして、私は、中学に入学することで、一つ望みがありました。それは、そばにいてくれるだけでいい、友達がほしかった。それがかなって、しかし、家の事、奨学金を取っている事がばれるのが怖かったし、友達がいなくなるのが怖かった。だから私は、ずっとかくし通してきました。
 でも市芦に入学し、担任の先生にクラスに自分の家の事、奨学金を取っている事を言ったらどうかと言われ、私は迷いました。しかし、クラスで部落の子が自分の事を話している姿に、私はもう逃げたらあかんと思い、クラスに言いました。もうかくさなくていいと思うと、少し気が楽になりました。
 そして、奨学生集会で、深沢先主に出逢いました。それまでの私は、教師というのは、自分の知っている勉強を教え、ついてこれる者はついてこいといった人間だと思っていました。しかし市芦の先生はそうではなかった。生徒一人一人の問題を真剣に考え、指導し続けてくれました.自分の自由の時間をさいて生徒のために走り回ってくれる先生が、市芦には多数いました。そして、私が高校三年の時、またもや市教委は、私だちが苦労して思いをこめて書いた申請文を読まず、収入基準オーバーとして奨学金を落される者がでて、半年間、私たちは奨学金闘争を続けました。その間にも、今の校長、教頭は、何もしてはくれず、校長を呼んで話し合いも何度かもうけましたが、校長は、何の役にもたたなかった。
 その後、高校三年の文化祭で、その闘いの続きとして、初めて奨学生で劇をすることになり、私はすぐにやる気がおこらなかった。「真剣に聞いてくれる子なんかおらへん」とか言うては、深沢先生と言い合いになりました.
 本当は勇気がなかったのだと思います。しかし日がたつにつれて、やらなあかんと思うようになりました。毎日のように台本作り、練習と逃げだしたくなる時もありました。
 そして当日、私はセリフの途中に涙があふれ、セリフがつまりました。でもそれは、同情かうためでもない。悲しかったわけでもない。中学までの私と違い、こんな多くの人の前で話ができるようになったことが、うれしかった。
 私が、もし市芦に行っていなかったら、かくし通して弱い人間のままだったと思います。
 市芦がなかったら、私は高校に行ってなかったと思います。わたしにとって「いも虫の唄」という劇をして、本当に良かったと思いましたし、奨学金を取っていることが恥ずかしくないと思えるようになりました。
 そしてこの「いも虫の唄」を終えるまでの間、私を支えてくれたのが、深沢先生であり、「いも虫の唄」に出ていたメンバーの友達であったし、真剣に聞いてくれた人達でありました。
 そしていつも、そばにいてはげまし挽けてくれた人もいました。私はそういう人達に感謝しています。
 市芦を必要とする生徒が一人でもいる限り、市芦をつぶすことは許さないし、一日も早ぐ勝利してみんなで喜びの涙を流せることを信じているし、そのためにもみんなで力を合せて勝利を!