20回生 M.N. 1986/10

 奨学金を取っている三年のNです。この前奨学生で(市芦教育改革とそれに伴う教員強制配転処分に対する)抗議文と署名文を書いて集めたんですけど、三年生の私たちは、今の市芦が変えられるとそう思ったから動いてきました。

私には市芦しかなかった

 私の場合だったら中学から振り返ってみたら、ろくに勉強せずに遊んで内申も悪かったし、中学の時から奨学金も取っていて家も母子家庭で苦しかったし、中三ぐらいになってからやっと進路というというのを考え出して、いざ自分がいく学校というものを考えてみたら県芦・県南なんてとうていいけるところじゃなかったし、私学にいくお金などうちの家からは出てこなかったし、学力とか内申でもギリギリのラインで落ちるか落ちないかといわれたし、そこで市芦と先生にいわれたんやけど、私ほやっぱり外見の市芦しか見てなかったからね、やっぱり行くのは、はずかしいと思う気持ちも正直あったし、山手中学だったから市芦にくる生徒がほんのわずかやったから、友達ができるかなという感じで迷っていたんやけど、お姉ちゃんの友達の市芦の人に聞いたたら、いい学校やから来いというし行きようがなかったからとにかく市芦に入ろうと思って入った。

友達がいたからこそ卒業できた

 入ってみて、はじめの頃はびっくりすることもあったけど、S中学も子のほうが多かって、それなりに自分と気があったし気持ちが同じようなことを考えていたから、まあまあ友達ができて私もめぐまれて来やすい状態だった。それでも学校を休みがちで三年になるまで毎年進級でひっかかっていました。そんな時にあたしが学校に行かれたたんは友達やと思う。私は学校を休んでも連絡を全然とらんのに友達の方かちさがしにきてくれて、連絡とって学校来いよと言ってくれる。先生も同じように捜しまくっていたんやけど、私が学校に来ようと思ったんは友達のおかげやし、一緒に卒業したいと思ったんは友達がいたからです。

市芦が変わると帰るところがなくなる!

 県立A高校とかにいっている友達もいるねんけど、何年かたって会ったら市芦の友達と考えをくらべてみたらこの子らは何を考えてんのかなあと思う面がいっぱいあります。たとえば、誰かが何かで悩んでいるとしても、他の学校行っている友達やったら「だいじょうぶ」とうわべだけの言葉しかかえってこないし、それからは何も考えてないんやなあという感じやねんけど、市芦の私の友達やったら大丈夫ともいわない子もいるけど、あとからとか裏からとか友達に聞いたら、人一倍心配してくれていたり、お金がなかったらお金かしてくれて、食べんのなかったら食べんのん持ってきてくれたりしてくれる、そんな友達です。私は卒業できるかどうかまだわかんないけれども、もし卒業して何か淋しくなって相談したくなって市芦に帰って来ようと思っても、市芦が県立A高校とか県立M高校みたいに進学校になって、通っているその時の生徒が全然ちがう雰囲気で、もし職員室に入って知らない先生ばかりで、今のような何でも相談できる先生らがいなくなってたら、私は帰るところがないし、それにもう自分が出た市芦が芦屋にはなくなったんやなあと思いたくないからいま活動しています。

市芦の先生が初めて、私を一人の人間として見てくれた

 これから市芦に来ようとしている私達のような生徒で、もし市芦がなくなったら行くところがないし、私みたいに友達のよさとかわからないと思うし、それに市芦の先生が初めて私を生徒じゃなくて一人の人間としてみてくれました。だからこれからも市芦を変えていくようなら、私は奨学生として行動していくし、私達三年は多分ほとんどの人が卒棄してまたこんなんがあったらいま動いてくれてる卒業生の人達と同じような活動すると思います。
 校長先生と教頭先生は、私から見たら一番なりたくない大人やし、一番したくないことをしている大人です。教頭先生は一度鏡で自分の顔をみたらいいと思うけど、目付きが変ったし、話しかけようにも話しかけられないこわさがあります。

 鈴木先生のことはあまり知らないけれども、先生がしてきたことをまわりの先生もいうし、卒業した人達もいうし、私の思っている市芦を変えてほしくないから、先生も早く教壇に帰ってきてほしいと思います。

(1986年10月1日付けて突然強制配転された鈴木先生の離任式にて)